第1章
温水寧凪の視点
8月20日――この日は、私にとって一生忘れられない日になった。
妊娠三週目だと分かったその日、夫の後藤辰和の浮気相手――亡くなった兄の妻であり未亡人の義姉、早乙女星奈の存在を、この目ではっきり確認してしまったからだ。
「注射痛い~! パパ、チューして!」
小児科外来から数十メートル離れた廊下の端で、私はその光景をはっきりと見ていた。
ピンクのプリンセスドレスを着た小さな女の子が、後藤辰和に抱き上げられて、甘えた声でそうねだっている。
あれは、亡くなった辰和の兄と早乙女星奈の娘――五歳になる後藤佳奈だ。
そして私の夫である後藤辰和は、その呼び方を嬉しそうに受け入れ、佳奈のほっぺに軽くキスを落とし、驚くほど優しい顔で笑ってみせた。
「これでまだ痛いか?」
「まだちょっと痛い。パパがママにもチューしてくれたら、佳奈ぜ~んぶ治るのに!」
「佳奈、そんなこと言っちゃダメでしょ」
早乙女星奈はたしなめるように佳奈のほっぺをつまみ、くすくす笑いながらつま先立ちになって、辰和の首に腕を回した。
ふたりの唇が触れそうになった、その刹那。
私は迷うことなく、後藤辰和に電話をかけた。
せっかくの「仲良し三人家族」の甘い雰囲気を壊されたのが、きっと気に入らなかったのだろう。
彼の表情には、はっきりとした不機嫌さが浮かんでいたし、電話に出た声まで氷のように冷たかった。
「何だ」
「辰和、今どこにいるの? 一回、家に戻って来てもらえない?」
スマートフォンを強く握りしめて、どうにか平静を装う。
けれど返ってきたのは、容赦のない拒絶だった。
「忙しい」
「でも辰和、どうしても伝えたいことがあるの。時間は取らせないから」
「金なら秘書に振り込ませる」
「違うの、私は……」
「温水寧凪」
名前を呼ぶ声はひどく冷ややかで、その顔にはあからさまな嫌悪が浮かんでいた。
「賢い人間ならな、どこで手を引くべきかくらい、分かるはずだ」
私は後藤辰和の、法的にも正真正銘の妻だ。
お腹の中には彼の子どもがいる。
ただ、その喜びを分かち合いたかっただけ。
彼が「父親」になったことを、真っ先に伝えたかっただけなのに。
そんな私の気持ちは、彼の目には「欲をかいて際限を知らない女」にしか映っていないのだろう。
無機質な「ツー、ツー」という切断音が耳に残り、すぐ後に「1億入金」の通知が表示される。
私はその場に呆然と立ち尽くしたまま、早乙女星奈が親しげに彼の袖口を引き、心配そうな声をかける様子を見ていた。
「辰和、寧凪ちゃん、本当に何か用事があったんじゃない? 一度帰ってあげたら?」
後藤辰和は、その言葉に鼻で笑っただけだった。
「アイツは昔から、そういう見え透いた小細工が好きなんだ。金は送った。相手にする必要はない」
「そんな言い方しちゃダメよ。寧凪ちゃんは孤児で、小さい頃から愛情に飢えてたんだもの……だからきっと、あまりにもあなたを愛しすぎて、不安で、繋ぎ止めたくて、つい……」
「本当に愛しているなら、あんな卑怯な真似で薬なんか盛らない。アイツが欲しいのは、後藤の妻って肩書きと金だけだ」
違う――辰和、違う。
あの夜は、私だって被害者だった。
どうして目が覚めたら、あなたと同じベッドにいたのか、私にも分からなかったのに!
全身が震える。
今すぐ駆け寄って、喉が潰れるまで弁解したかった。
けれど後藤辰和は、私の存在など欠片ほども意識せず、片腕で佳奈を抱き上げ、もう一方の腕を早乙女星奈に絡ませて、柔らかく微笑んだ。
「ほら、興醒めな話はここまで。今日は佳奈を遊園地に連れて行く約束だっただろ」
「パパだ~いすきっ! 世界で一番パパが好き!」
佳奈は歓声を上げ、彼の首にぎゅっと両腕を回す。
三人は肩を寄せ合い、何の翳りもない幸福な家族のように、病院を後にした。
本物の妻である私は、その場に取り残された泥棒さながらに、陰の中で息を潜めている。
今さら駆け寄ったところで、いったい何が変わるのだろう。
結婚してからの二年、私は一度や二度ではなく、何度も何度もあの夜のことを説明しようとしてきた。
けれど、そのたびに返ってくるのは彼の冷笑だけだった。
きっと彼は、心の底から私を憎んでいる。
あの夜の出来事さえなければ、そして祖母の圧力さえなければ、とっくの昔に早乙女星奈と結ばれていたはずなのだから。
後藤辰和が帰宅したのは、深夜をとうに回ってからだった。
私を一瞥しても、その顔には何の感情も浮かばない。
そのまま無言でバスルームへ消えていく。
シャワーの音を聞きながら、私は彼が脱ぎ捨てたスーツを拾い上げた。
後藤辰和は身だしなみに厳しい人だ。
いつ見ても隙のないスーツ姿で、髪型ひとつ乱れていない。
なのに、今手にしているオーダーメイドの高級スーツには、キャラクターもののシールがぺたりと貼られ、アイスクリームのシミまでついている。
ひと目で、佳奈の仕業だと分かった。
彼が姪にここまで優しくできるのなら――
私との子どもには、それ以上の愛情を注いでくれるのだろうか。
私たちの関係にも、ほんの少しだけ、修復の余地が生まれたりしないだろうか。
そんな淡い期待が頭をよぎった瞬間、自分で自分が滑稽に思えた。
それでも、期待してしまう心は勝手に走り出してしまう。
だがすぐに、背後から冷え切った声が落ちてきた。
「渡した金、どうして受け取らない」
「何度も言ってるでしょ。私はお金が欲しいわけじゃないの」
振り込み通知が届いたとき、私はすぐさま元の口座へ返金していた。
後藤辰和は、私を一瞬だけまっすぐ見つめ、口元に嘲笑を浮かべる。
「そういうことか」
どういうこと?
意味を問い返す暇もなく、濡れた冷たい大きな手が、勢いよく私の襟元の中へ滑り込んだ。
その感触に全身がびくりと震え、私は慌てて彼の手を押さえ込む。
「辰和、やめて……ダメ、私……!」
彼は私の言葉を最後まで言わせようともしない。
顎を強くつかむと、そのまま荒々しく唇を奪ってきた。
骨ばった大きな指先が、自分のバスローブの紐をほどき、私の上に覆いかぶさってくる。
「電話をかけてきたり、金を突き返したり――目的はこれだろ」
「違う、辰和、そんなつもりじゃない、私は……!」
私は必死に首を振り、彼の氷のように冷たいキスから逃れようともがいた。
全身が小刻みに震える。
「辰和、今日は本当にダメ、私、もう……うっ……」
胸の奥から、急に酸っぱいものがこみ上げてきた。
思わず唇を押さえ、何度も空えずきをする。
全身の力が抜けるほど気持ち悪くて、立っているのも辛い。
けれど、後藤辰和はただ私を見下ろし、冷笑をひとつ落としただけだった。
「また芝居か。俺のベッドに潜り込んだときは、あれほど積極的だったくせに。今さら貞淑ぶったところで何になる。温水寧凪、お前は本当に……下劣だな」
――下劣。
私の夫であり、お腹の子の父親である人が、今の一言で私を切り捨てた。
震える視線を、目の前の男に向ける。
整った顔立ちには一片の情もなく、ただ私への濃い嫌悪だけが澱のように沈んでいる。
頭のどこかで、ぷつりと何かが切れた音がした。
胸の奥から、抑え込んでいたものが噴き出した。
「誰が下劣ですって?」
自分でも驚くほど掠れた声が、ほとんど叫びに近い勢いでほとばしる。
「後藤辰和、私、あなたと結婚してからずっと大人しくしてきた。道を踏み外すようなことなんて、一度だってしてない。それなのにあなただけはどうなの?」
息を荒げながら、止まらなくなった言葉をぶつける。
「自分の兄嫁に欲情して、姪に『パパ』なんて呼ばせて……そんなあなたに、私を下劣呼ばわりする資格が――」
「温水寧凪!」
その名前を呼ぶ声は、雷鳴のように鋭かった。
次の瞬間、私はベッドに押し倒されていた。
赤く充血した彼の瞳は、檻の中で追い詰められた獣のように荒んでいる。
背筋に冷たいものが這い上がった。
「もう一度言ってみろ」
理性の声が、これ以上逆なでするなと必死に警鐘を鳴らす。
けれど、昼間病院で見た光景が、そしてお腹の子のことが、頭の中をぐるぐると駆け巡り、私の感情はブレーキを失っていた。
「自分でやったことなら、言われても仕方ないでしょう!」
声が震える。
それでも、もう止まれなかった。
「後藤辰和、あなたなんて最低よ! もう二度と私に触らないで。大っ嫌い……きゃっ!」
言葉の終わりを、勢いよく引き裂かれる布の音がかき消した。
ドレスの胸元が乱暴に破られ、その裂けた布切れで、私の両手首は容赦なく縛り上げられる。
彼の瞳には、これまで見たこともないほど暗い凶暴さが宿っていた。
「温水寧凪。全部、お前が招いたことだ」
唇に落ちてくるものは、もはやキスと呼べるものではない。
怒りと憎悪をぶつけるための暴力そのものだった。
痛みで視界が滲む。
泣き声なのか、悲鳴なのか、自分でも分からない声が喉の奥から漏れ出す。
彼の欲望が爆発寸前なのを、嫌というほど肌で感じる。
恐怖で頭が真っ白になった私は、最後の力を振り絞って叫んだ。
「後藤辰和、やめて! ダメ……私――妊娠してるの!」
