第4章
「どういうことだ」
階段の方から低い声が降ってきて、顔を上げると、後藤辰和が険しい表情のまま早足で降りてくるのが見えた。
「パパ!」
佳奈はそのまま抱き上げられ、辰和の胸元にしがみついて私を指さす。涙で濡れた瞳一面に、恨みが滲んでいた。
「おばさんがさっき私を突き飛ばして、パパのいない野良犬だって言ったの!」
その言葉に、全身がびくりと震える。五歳の子どもが、こんな残酷な嘘を口にできるなんて信じられなかった。
「違う、辰和、私じゃない。あの子が私の診断書を奪って、破り捨てたのよ!」
どうにか床から身を起こす。鈍い痛みが下腹部の奥でじくりと広がる中、私は診断書の欠片をかき集め、私たちの子の存在を見せようと必死に組み合わせた。けれど、どうやっても元の形には戻せない。
辰和は冷ややかな視線を一度だけこちらに投げた。その一瞥に宿る氷のような冷たさに、背筋から血の気が引いていく。
「温水寧凪。佳奈が俺のことをパパって呼んだだけだ。それすら許せないのか」
声には露骨な苛立ちが混じっていた。もう一言話すことさえ、時間の無駄だとでも言うように。
胸の中心を、誰かに鷲掴みにされたみたいに痛む。息を吸うことさえうまくできない。それでも、こぼれる涙だけはどうしても止められなかった。
いろいろな修羅場をくぐってきたつもりでいた。自分はもっと強い人間だと思っていた。けれど、後藤辰和の理不尽なまでの決めつけを前にして、取り繕ってきた平静はあっけなく崩れ去る。
「あなたの中で、私はそんな人間なの?」
息をひとつ吸い込み、静かに彼を見据える。低く、苦さを含んだ声が喉からこぼれた。
「どれだけ堕ちても、子ども相手にそんな――」
「もういい」
辰和は鋭く私の言葉を断ち切った。瞳には、私への嫌悪と嘲りだけが濃く満ちている。
「妊娠? その嘘で俺をいつまで誤魔化すつもりだ。長島先生がとっくに、お前が妊娠なんかしてないって証明しただろ」
「先生が間違えたの。今日、別の病院で検査してもらったのよ。はっきり妊娠三週目だって言われたわ」
私はあわててしゃがみ込み、床の破片を拾い集めながら必死に訴える。
「見て、これが診断書よ。破かれちゃったけど、繋げればまだ読める……」
「佳奈、もしあなたに何かあったら、ママはもう生きていけない!」
そのとき、早乙女星奈が突然飛び出してきた。頬には乾ききらない涙の跡。いかにも儚げで、見ている方が苦しくなるような顔つきだった。
辰和の周囲には、重苦しい低気圧のような空気が張りつめていた。けれど、星奈が現れた途端、その嵐の一番冷たい中心が、わずかに緩むのが分かった。
「星奈、佳奈は無事だ」
かすれぎみの声に、押し殺した感情が紛れ込む。彼女の肩を掴む手は骨ばっているのに、どこまでも慎重だった。
その目の奥に浮かぶ慈しみを見て、言葉にできない嫉妬が胸を刺す。
世間では、彼は冷血だの笑わないだのと言われている。けれど、私は知っている。彼が持っている柔らかな優しさのすべては、早乙女星奈と佳奈に注がれているのだと。
「ごめんなさい。佳奈がパパに会いたすぎて、寧凪さんを怒らせてしまったんだと思う。全部私のせい。寧凪さん、文句は全部私に言って。佳奈は、あまりにも可哀想で……」
私はひと言も発していないのに、彼女は先回りするように、私を道徳の断頭台へと引きずり上げる。
どれほど卑劣で幼稚なやり口だろう。なのに、数えきれないほど人を見てきたはずの後藤辰和は、最初から最後まで見抜こうともしない。
いや、見抜けないのではない。見ようとしないのだ。
「おばさんが言ったの。私は野良で、パパって呼ぶ資格なんてないって……」
彼女たちの芝居がかったやり取りを見ていると、胃の中がぐるりと捩じれた。
母娘で息ぴったりに、愚かしい寸劇を完璧に演じ切っている。
「佳奈に謝れ」
辰和は温度を失った瞳で私を射抜き、低く命じた。その嫌悪は、今にも私を丸ごと飲み込もうとしているかのようだった。
私は頑として首を横に振り、手の中の紙片を握りしめる。
「私、間違ってない。どうして謝らなきゃいけないの?」
「どうしてお前は少しでも大人しくしていられないんだ。どうして家の中をかき回さずにはいられない」
辰和は一歩踏み込み、私の手首を乱暴に掴んだ。骨が砕けそうなほどの力で。
痛みに足許が揺らぎ、それでも私は顔を上げて言い返す。
「かき回してるのは誰? 後藤辰和、自分の目でちゃんと見なさいよ。最初から挑発してきたのは、あの二人でしょ!」
「辰和、やめて……」
星奈は止めるふりをしながら、さらに油を注ぐ。
「寧凪さんは、それだけあなたのことを大切に思ってるの。だから私と佳奈に敵意を持つのも無理ないわ。責めるなら私を責めて。佳奈にパパって呼ばせた私が悪いの……」
「当たり前でしょう!」
私は勢いよく星奈を睨みつけ、胸に溜まった鬱憤を一気に吐き出した。
「彼はあなたの夫の弟であって、夫じゃない! 早乙女星奈、長年ひとりで寂しいのは分かるけど、はっきりさせておく。後藤辰和は、私の夫よ!」
「温水寧凪!」
辰和が怒号を上げ、私の腕を乱暴に振り払った。
数歩よろめき、腰がテーブルの角にごつんとぶつかる。そこから腹の奥へと鋭い痛みが走り、冷や汗が一気に吹き出した。
本当に聞いてみたい。後藤辰和の心は、一体何でできているのか。どうして、私がどれだけ抱きしめても、少しも温かくならないのか。
「よしなさい!」
そのとき、不意に階段の上から、祖母の威厳に満ちた声が響き渡った。
彼女は足を速めて降りてきた。顔色は土のように暗い。
「後藤辰和、お前は本当に是非もわきまえられないのかい」
祖母は辰和を睨み据え、杖の先で彼の胸を強く突いた。
「寧凪こそ、お前の妻だろうが」
「星奈は兄さんの未亡人です」
辰和の瞳は暗く沈み、その奥には絶対に揺るがない決意が宿っていた。
「おばあ様は、少し彼女に偏見を持ちすぎです」
祖母に対して、彼はいつだって頭が上がらないはずだった。なのに、早乙女星奈のためなら、祖母と対立することさえ厭わない。
祖母は怒りで全身を震わせ、杖を床に叩きつける。けれど、その音は彼の胸には届かない。
「私が偏見を持ってるだと? 後藤辰和、お前は兄さんがどうやって死んだか忘れたのかい。あの女が辰安にしつこく潜水をねだらなけりゃ、辰安は……」
「おばあ様!」
星奈がその場に崩れ落ちるように膝をつき、床に手をついた。涙をぼろぼろとこぼしながら、声を絞り出す。
「当時のことは全部私のせいです。この何年も、ずっと苦しんできました。佳奈がいなければ、とっくに辰安の後を追ってます!」
涙で潤んだ目を上げ、意味ありげに祖母を見つめると、彼女は突然立ち上がり、テーブルの角へと身を投げ出した。
「辰安、この家にはもう私の居場所なんてないの。今そっちへ行くわ!」
佳奈がわっと泣き出し、喉が裂けそうな声で叫ぶ。
「ママ、行かないで!」
辰和は瞬時に星奈の体を抱え込み、胸にかき寄せた。まるで壊れ物か、世にも稀な宝でも扱うように。
「星奈、馬鹿な真似はやめろ」
彼は顔を伏せ、極上の羽根のような優しさを、その視線に込めて彼女の濡れた顔を撫でる。
そんな愛おしげな眼差しを、私が向けられたことは一度としてない。
私と後藤辰和の間には、彼が築いた高い城壁がそびえ立ち、私はその壁に頭を打ち付けて血を流すだけだ。なのに早乙女星奈が眉を寄せた途端、彼は迷いなく城門を開け渡す。
「お前という子は……」
抱き合ったまま離れようとしない二人を見て、祖母は星奈を指差し、胸を激しく上下させたかと思うと、顔色がさっと蒼白に変わった。
異変を感じた私は、腹痛を堪えて祖母の元へ駆け寄り、慌てて支える。
「おばあ様、大丈夫?」
祖母は荒く息をつき、額に細かな汗を滲ませて、言葉を失っていた。
「おばあ様!」
辰和も慌てて駆け寄り、私と一緒に祖母の体を支える。
祖母の呼吸はますます苦しげになり、胸元の服をぎゅっと握りしめたまま、痛みに顔を歪めて目を閉じた。
私は腹の痛みを必死に押し殺し、震える指で救急の番号を押す。
リビングは一瞬で混乱の坩堝と化し、怯えた佳奈がワンワン声を上げて泣き叫んでいた。
