第5章

病院の廊下には、消毒液の匂いと、どうしようもない悲しみが満ちていた。

祖母はベッドに静かに横たわり、生命維持装置に繋がれている。

医師の言葉が、耳の奥でいつまでも反芻されていた。

「バイタルはひとまず安定しています。ただ、いつ目を覚まされるかは……なんとも申し上げられません」

ここでは時間という概念が意味を失い、ただモニターの規則正しい「ピッ、ピッ」という電子音だけが、この命がまだ辛うじて続いていることを示していた。

私は温めたタオルを固く絞り、祖母の鼻先に通された酸素チューブをそっと避けながら、深く刻まれた皺の額と頬を、できるかぎりやさしく拭っていく。

ひとつひとつの動作を、これ以上ないほど丁寧に。

この安らかな眠りを、少しでも乱してしまわないように。

「おばあちゃん」

上体をかがめ、私たち二人にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。

「私……赤ちゃんができたの」

この知らせを聞いたら、どれだけ喜んでくれるだろう。

ぽたり、と落ちた涙がシーツに滲んで、暗い色のしみを作る。

顔を上げても、予想していたような驚きや歓喜は訪れない。

祖母は、やはり固く瞼を閉じたままだった。

かつて私の手の甲を、あんなにも温かく叩いてくれたその手は。

今は力なく、冷たいまま、真っ白なシーツの上に投げ出されている。

ベッドから数歩離れた場所に、後藤辰和が立っていた。

すっと伸びた背筋、隙ひとつない高級スーツの装いは、この病に蝕まれた空間の中で、逆に浮いて見える。

彼は顔を強張らせ、張り詰めた弓のような顎のラインのまま、深い眼差しを祖母へと落としていた。

その眼の奥では、私には読み切れない感情が渦巻いている。

心配。怒り。あるいは、ごくかすかな罪悪感――そんなものまで混ざっているのかもしれない。

一方、早乙女星奈はといえば、骨のない蔓草のように彼の横にぴったりと絡みつくように寄り添っていた。

二人並んでいるだけで、まるで本物の夫婦のように見える。

彼女は伏し目がちにうつむき、震える肩を小さく上下させながら、途切れなくしゃくり上げていた。

そのすすり泣きは決して大きな音ではない。

それでも、機械音をあっさりと突き抜けて、きっちりと周囲の耳に届く。

「辰和、全部私が悪いの。佳奈のことが心配で……おばあ様を怒らせるつもりなんて、本当になかったのに」

計算し尽くされたかのような涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。

それは後藤辰和の高価なスーツの袖口を濡らし、同時に、もとより彼女のほうへ傾いている心を、さらに叩き続ける。

後藤辰和は薄い唇を固く結び、ひと言も発しない。

祖母をあそこまで追い込んだ当人であるはずなのに。

それでも、彼は彼女に厳しい言葉をひとつ投げることもできないのだろうか。

二人の姿を見ていると、胸のあたりが氷水に浸されたように冷えきっていく。

やがてその冷たさは手足の先まで広がり、全身をすっかり凍らせてしまう。

病室のドアが開き、長島先生がカルテを手に入ってきた。定期のチェックの時間なのだろう。

「長島先生、祖母の今後の看護やリハビリで、特に気をつけるべき点はありますか」

私は思わず背筋を伸ばしていた。

あの誤診以来、彼に対してどうしても疑念を抱かずにはいられない。

点滴の速度を調整していた長島先生の手が、ほんの一瞬、目に止まらないほどかすかに止まる。

彼はモニターの数値を丁寧に確認したあと、こちらへ向き直った。

口調は、いつもと変わらぬ穏やかなものだ。

「ご安心ください。大奥様のお体の状態に合わせて、最も細やかで周到な看護プランを作成してあります。万全を期しておりますよ」

「万全……」

私は低くその言葉を繰り返し、眼鏡の奥にある彼の瞳をまっすぐ射抜いた。

ほんのわずかな揺らぎも、見逃すまいとして。

長島先生は、私の変化に気づいたのだろう。

一瞬だけ考えるように視線をそらし、それからすぐに、合点がいったと言わんばかりの表情を作ってみせた。

「もしご不安でしたら、別の先生に診ていただいても構いませんよ」

「温水寧凪」

冷ややかな声が、背中から私を凍りつかせた。

すべての思考が、その一声でぴたりと止まる。

私に関わることになると、彼はいつだって、一拍の迷いもなく反対側に立つ。

まるで私たちが、生まれたときから相容れない敵同士であるかのように。

私はひきつった笑みを口元に貼りつけた。

祖母の身体のことを一番分かっているのは長島先生だ。

今は、飲み込むしかない。

「冗談ですよ。……そうだ、その看護プラン、見せてもらえますか。私が直接、おばあちゃんの世話をしたいので」

長島先生の頬の筋肉が、ぴくりと引きつる。

一瞬、はっきり分かる焦りがよぎったものの、彼はすぐにスマホを取り出し、私の前に差し出した。

「時間がなくて、紙に起こす暇がありませんでしたので、電子版になりますが」

「構いません」

スマホを受け取る、その一瞬の隙。

指先をすべらせ、私は素早く監視用のコードを仕込んだ。

祖母に、これ以上なにか起こることは絶対に許せない。

そしてこれは――

私と、お腹の子を守るための、最初の防御線でもある。

病室を出ると、早乙女星奈の泣き声がまた耳に飛び込んできた。

本当に、彼女は水でできているのだろうか。

涙が、まるで枯れることを知らないかのように流れ続けている。

後藤辰和の逆鱗に触れたはずなのに、それでも彼女は、彼の中の無尽蔵の憐憫を引き出せる。

「寧凪ちゃんは、きっと私のこと大嫌いでしょうね。おばあ様はあんなに寧凪ちゃんを可愛がっていたし……分かってるの、私だって、好きで辰和にまとわりついてるわけじゃない。佳奈にはどうしてもパパが必要だった。それに、もし辰安が生きていたら、私だって、こんな……」

泣きながら、彼女は後藤辰和の胸元のオーダーメイドのシャツを、ぎゅっと握りしめる。

ついでに、ようやく静まりかけていた私の心まで、ぐちゃぐちゃにかき乱していく。

そのひとつひとつの言葉が、祖母がなぜ倒れたのかを、容赦なく突きつけてくる。

積み上げてきた理性も、押し殺してきた冷静さも。

彼女の白々しい涙声を聞いた瞬間、音を立てて崩れ落ちた。

胸の奥でせき止めていた怒りが、溶岩のように一気にせり上がる。

堤防を打ち砕き、私の中の「我慢」という名のものをすべて焼き尽くしていく。

結婚式の日。

私とまったく同じピンクのドレスを身にまとって現れたときから――

彼女の後藤辰和への想いは、誰の目にも明らかだったのに。

それでも彼は、その甘い毒に溺れていた。

結婚後に会うたび、彼女はまるで本物の奥方のように私の前で振る舞った。

彼の友人や取引先でさえ、正式な妻である私の存在は知らなくても、「未亡人の義姉」がいることは誰もが知っていた。

昔の私は、それでもいつか彼が振り向いてくれると信じていた。

けれど今は違う。

私には、この人との子供がいる。

そして祖母もいる。

もうこれ以上、彼女の好き勝手を見過ごすつもりはなかった。

私は数歩で二人の前まで詰め寄った。

ヒールがピンと高い音を立て、ツルツルの床を小気味よく叩く。

静まり返った廊下に、その足音は戦のはじまりを告げる太鼓のように響き渡った。

「もういい加減にしなさい」

自分でも聞き慣れないほど冷え切った声が、喉からこぼれ落ちた。

そこには、私自身さえ知らなかった棘と殺気が含まれている。

後藤辰和は顔を上げ、ほとんど反射的に早乙女星奈をさらに強く庇い、自分の体で私との間に壁を作った。

その深い眼差しには、一瞬で分厚い氷が張りつめられる。

鋭い声が、容赦なく飛んできた。

「温水寧凪。お前、何をするつもりだ」

私は彼を見なかった。

視線はふた筋の鋭い刃となって、早乙女星奈の、涙に濡れた儚げな顔に突き刺さっていた。

この顔だ。

その偽りと挑発で、私を一番可愛がってくれた祖母を、あそこまで追い詰めた張本人。

積もり積もった恨みが、新旧まとめて押し寄せる。

「何をするつもりか、ですって?」

自分の声が震えているのが分かった。怒りのあまり、喉が焼けるようだった。

次の瞬間。

私は全身の力を込めて腕を振り上げる。

慌てふためく医師たちと護衛たちの視線が、一斉にこちらへ向けられるのも構わず、その頬へ叩きつけた。

パァン――

乾いた痛烈な音が、雷鳴のように廊下中に響き渡る。

「温水寧凪!」

後藤辰和の怒号が、天井を震わせた。

彼は私の手首を乱暴に掴み上げる。

まだ振り切ってもいないその手を、骨が砕けるかと思うほどの力で握り潰す。

手首から、一気に激痛が走った。

それでも私は歯を食いしばり、声を上げず、決して一歩も退かなかった。

「よくもやったな」

見下ろしてくる彼の瞳には、むき出しの憎悪が燃え上がっている。

一片の容赦もない、純粋な「敵」への目。

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