第6章

「怖い?」

喉の奥から、乾いた嗤いが不意にこぼれた。血の味を含んだ、えぐるような嘲りだった。

目が見えず心も腐っている男を嗤ったのか、それとも蛾みたいに火に飛び込み続けた自分の愚かさを嗤ったのか――自分でも分からない。涙腺は焼けつくほど痛いのに、一滴も落ちてこない。

胸の奥で何かが、ぱきぱきと音を立ててひび割れていくのが分かる。砕け散った破片は刃物みたいに鋭く尖り、息をするたび内側からずたずたに切り刻んでくる。うずくまってしまいたいほどの痛みの中、視界には、早乙女星奈を庇って立ちはだかる後藤辰和の姿だけが、ねちねちと焼き付いていた。

――極まった失望って、泣きもしないんだ。

私は、辰和の背中に守られたまま顔を押さえ、くぐもった声ですすり泣いている早乙女星奈を指さした。声は怒りで震えていたのに、不思議なほど澄み切って廊下に響き渡る。

「もし、あの子がわざとおばあさまの前でめそめそ泣いて、事実をねじ曲げたりなんてしなかったら――おばあさまが、今みたいな状態になることなんてなかった」

おばあさまの話を出した瞬間、辰和の瞳に、ほんのわずかな揺らぎが走った。

「後藤辰和、答えてよ。この一発――あの子が、受けて当然じゃないの?」

私の問いは鋭い刃物になって、彼の目を覆っている「えこひいき」という名の霧を切り裂こうとする。

早乙女星奈は、その変化を敏感に感じ取ったのか、びくりと肩を強く震わせた。

涙で滲んだ顔をゆっくり上げ、彼のジャケットの袖をぎゅっと掴みながら、掠れる声を絞り出す。

「辰和、寧凪は悪くないわ。打たれて当然なのは、私のほう」

「もし辰安が生きてたら……きっと、あの子も私を叩いたと思う」

そのか細い声は、辰和の耳元でだけ落ちたはずなのに、彼の眉間には幾重にも重なった山脈みたいな皺が刻まれた。

「あなたに、辰安の名前を口にする資格なんてある?」

思わず噛みつくように言い返した私に、返ってきたのは、振り上げられた彼の手だった。

長い沈黙ののち、その手は、結局落ちてこなかった。その代わりに押し寄せてきたのは、寒波みたいな視線だ。その目が触れた場所は片っ端から凍りつき、さっきまで口論で熱を帯びていた空気さえ、一瞬で氷点下にまで冷え込んでいく。

「いい加減にしろ」

堪えそこねた涙が、縁からつう、とこぼれ落ちた。さっきまでの激しい感情の揺れに、消毒液や薬品の混ざった病院特有のにおいが追い打ちをかけ、鋭く感覚を刺してくる。

不意に、胃の底から猛烈な吐き気が込み上げた。私はもう何も言えず、口を押さえたまま、ふらつく足取りで廊下の突き当たりにあるトイレへと駆け出す。

個室に飛び込み、鍵を掛けて、便座にしがみつくようにして、喉が裂けるほどえずいた。

胃の中はからっぽで、出てくるのは酸っぱい胆汁だけ。それが喉と食道を焼くように逆流してくる。

こめかみまで冷や汗がにじみ、視界の端がちらちらと暗く欠けていく。全身から力が抜けて、立っているのもやっとだった。

扉を叩く音がする。

すぐ続いて、聞き慣れた声。

「温水寧凪」

口元の汚れを拭いながらも、胸の奥が勝手にざわめく。この人の声が、私はずっと好きだった。

後藤家に来たばかりの頃、私の手を取って部屋まで案内してくれたのも、この声だった。

そのときも、今みたいに私の名前を呼んでくれて――そして、こう言ってくれた。

『これからは、ここが君の家だ』

あの日は、やけに陽ざしが良かった。斜めから差し込む光が、彼の肩に金色の縁取りを描いていたのを、今でも覚えている。

家庭の温もりなんて知らなかった私は、本気で彼を天使だと思った。

「芝居はもういい」

同じ声なのに――もう二度と、あんな言葉はかけてくれない。

私は無理やり手を伸ばし、レバーを押して水を流すと、残っている力を総動員して個室のドアを開けた。

入り口には、辰和の大きな影が立ちはだかっていた。高い背が出口を塞ぎ、彼は見下ろすように私の蒼白で惨めな顔を眺めて、口の端に軽蔑じみた笑みを浮かべる。

「どうした。続きはしないのか? もう吐けなくなった?」

私は顔を上げ、涙でぼやけた視界の向こうに、あの日と重なるシルエットを見つめた。けれど、今の彼の周りにあるのは、あの頃の柔らかな光じゃない。ただ、底なしの寒さだけ。

下腹部に、ちくりとした違和感が走る。そこに宿っている、小さな命の存在を否応なく思い出させる。

後藤佳奈にぐちゃぐちゃに破かれた診断書。長島の、あまりにも腑に落ちない「誤診」。そして、いまだ意識の戻らないおばあさま――。

どうしようもない無力感と疲労が、満ち潮みたいに押し寄せてきて、頭のてっぺんまで私を呑み込んでいく。

ここまで来ると、何を言い返そうが、どんなに説明しようが、全部無意味に思えた。

――どうせ信じない。

彼は、私にもうとっくに有罪判決を下している。

あの夜のことだって、彼が信じているのは、自分の目と早乙女星奈の脚色入りの証言だけ。

私がどれだけ心の底から叫ぼうと、彼にとっては、犯人の見苦しい言い訳でしかないのだ。

私は袖口で、頬を伝った涙と、さっきまでの醜態を乱暴に拭った。吐き気のせいでひどく嗄れた声には、もはや感情の色は残っていない。ただ、どこまでも静かな死の気配だけがあった。

「うん」

彼を真っ直ぐ見上げる。肩の力からそっと抜いて、口元に、ごく薄い笑みさえ浮かべた。

その落ち着きがあまりにも異様だったのか、それとも私の瞳に沈んだ死の色が本能的な不安を呼び起こしたのか。

辰和は、ほんの瞬きほどの間、息を呑んだように目を見開き、眉を深くひそめて、複雑な視線で私を見定めた。

だが、その奥にあったのは、やはり怒りだった。

私が抵抗をやめた態度に、彼は逆上している――そんなふうに見えた。

「黙りか?」

一歩、距離を詰めてくる。その存在感は、壁のように重い。思わず私は後ずさり、背中が冷たいタイル張りの壁にぶつかった。

「温水寧凪。お前、自分で騒ぎを起こして、人まで殴っておいて、一言も口を開かずにうやむやにするつもりか。自分を何様だと思っている。好き勝手やって、何の責任も取らないつもりか」

彼の瞳の奥で、嵐が渦巻いている。言葉はひとつひとつ、石のように重く突き刺さり、反論の余地を許さない。

「家に帰って、自分が何をやらかしたのか、徹底的に反省しろ」

てっきり、早乙女星奈のためにここぞとばかりに私を叩きのめすのかと思っていたのに――返ってきたのは、「帰れ」の一言だった。

口調さえこんなに酷くなければ、心配されたんじゃないかと錯覚してしまいそうだった。

「帰らない」私は即座に言い返す。「私はここにいる。おばあさまのそばに」

「お前の意見は聞いていない」

彼の忍耐の糸がぷつりと切れる音が聞こえた気がした。私の手首を乱暴に掴み、微塵の逃げ道も与えない。

もう私を見ることもせず、廊下の向こうで待機していたボディーガードと運転手に、冷たい声で命じる。

「彼女を家に連れていけ。俺の許可が下りるまで、別荘から一歩も出すな」

「後藤辰和、それはあんまりよ、放して!」

私は必死に身を捩る。恐怖と怒りが再び、胸の内から噴き出した。

――閉じ込める気なの?

妊娠を知ったばかりの今、おばあさまが意識も戻らず眠り続けている、この状況で?

けれど、私の力なんて彼の前では無に等しい。

二人のボディーガードが無表情のまま近づき、左右から腕を取ると、半ば強引に私をトイレから、病院の廊下から引き離していった。

車に押し込まれる直前、私は振り返って見る。

病院のエントランスの光の中に、辰和が立っていた。背筋の伸びた、完璧なシルエット。けれど、そこから滲む温度は、氷より冷たい。

彼は一度も私を見なかった。ただ踵を返し、また泣いている早乙女星奈のほうへと歩き去っていく。

胸の底は、その瞬間、完全に沈没した。

車が病院から遠ざかっていく。私は窓にもたれ、流れ去る街並みをぼんやりと眺めながら、全身が冷え切っていくのを感じていた。

彼は、自分が私を軽蔑しているつもりなんだろう。私の「聞き分けのなさ」を懲らしめているつもりなんだろう。

あの、広すぎて冷たいだけの別荘に戻ってみても、とてもじっとしていられなかった。

おばあさまが慣れ親しんだものが、もしかしたら必要かもしれない。さっきはあまりにも慌ただしくて、何ひとつ持ってきていない。

私は自分に言い聞かせるように深呼吸を繰り返し、落ち着いて荷物をまとめ始めた。おばあさまがいつも使っている柔らかい枕に、小さな毛布、洗面用具や日用品のあれこれ。

――もう一度、病院に戻ろう。

どうしても、おばあさまをひとりあそこに置いてはおけない。

そして、この「引き返す」というささやかな決断が――私を、完全な奈落へと突き落とす会話を耳にするきっかけになるのだった。

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