第7章

 荷物をまとめ終えたバッグを手に、私はそっと別荘の門を押し開けた。警備の目をすり抜けて、そのまま静かに外へ出るつもりだった。後藤辰和が手配した護衛たちに見つかれば、きっと止められるに決まっているから。

 門まであと少し――そう思った矢先、ヘッドライトの光が敷地の奥をなめた。黒いセダンがゆっくりと中へと滑り込み、玄関前で停まる。

 運転席から降りてきたのは後藤辰和。そしてもう一人、その隣に寄り添うように立つ早乙女星奈。二人は肩を並べたまま、そのまま書斎へと消えていった。

 すぐあとから、低く抑えた会話が漏れ聞こえてくる。その内容は、雷鳴のように私の足をその場に縫い止めた。

 書斎のドアは閉まっているはずだった。けれどよく見ると、細く一筋、隙間が空いている。

 気づいた時には、もう足が勝手に動いていた。

 私は影のように廊下を進み、ドアの隙間から中を覗き込む。

 ランプの薄い光に照らされて、早乙女星奈と後藤辰和が向かい合うように立っていた。部屋には、張り詰めたような静寂。

 その静けさを破ったのは、早乙女星奈の、探るような小さな声だった。

「辰和……もし、あくまで、もしの話だけど」

 彼女の声には、はっきりとした逡巡がにじんでいた。

「寧凪ちゃんが本当に妊娠してたら、どうするの? 今日あんなに吐いてたし……もしかしてってこと、ない?」

 その先は、言葉にならなかった。それでも、宙ぶらりんに残された問いは、目に見えない手になって、容赦なく私の心臓を鷲掴みにする。

 鼓動がうるさい。耳の奥で、血の流れる音がざあざあと鳴っている。私は息を殺し、喉を固く閉じて、ただ彼の答えを待った。

 一秒、一秒が、永遠のように長く伸びる。

 そして、私は一生忘れられない言葉を聞いた。

 変わらない冷たさに、鼻で笑うような軽蔑が混じった声。

 後藤辰和は、ふっ、と小さく嗤ったようだった。その口調はあまりにも漫然としていて、まるで自分とは無関係な話題を投げ捨てるかのようだった。

「あり得ない」

 きっぱりとした否定。迷いなど、一片もない。

「毎回きちんと処置してる。あいつが妊娠なんて、するはずがない」

「でも……」

「『でも』はない」

 早乙女星奈の言葉を、彼は冷ややかに断ち切る。その声には、すべてを見下ろすような、見透かしたような嘲りが滲んでいた。

「仮にだ。万が一、本当に腹の中に子供がいたとしても――」

 そこで彼は一拍置いた。その次に続いた一語一語は、毒を塗った氷柱のように鋭く尖っていて、ドアの隙間をするりと抜け、私の鼓膜を刺し貫き、そのまま心臓へと突き刺さった。

「ああいう、下劣な手を使ってベッドに上がり込んだ女だ。子供なんか、俺と後藤家を縛るための道具に決まっている」

 追い討ちは容赦がなかった。

「そんな腹の底の黒い女が産む子供なんて、俺は認めない。いらない」

 認めない。

 いらない。

 軽く吐き捨てられたそのひと言が、最も鋭い刃となって、上から落ちてきた。

 私の中にかろうじて残っていた、細い細い希望――子供のためだけでもこの家族を形だけでも保てたら、という幻想を、音を立てて切り落とす。

 彼の目には、私はそこまで落ちぶれた存在でしかなかった。

 私が宝物のように思い、必死で守ろうとしている子は、彼の中では、ただの「腹黒い女」が振り回すための「道具」でしかない。

 彼が振り返ろうともしない、認めようともしない「誤算」。

 あの夜、彼が勘違いしているのだとしても、結婚してからの二年、私の真心に触れれば、ほんの少しは変わってくれるかもしれない――そんな淡い期待も、結局は竹籠で水を汲むようなものだった。

 胸の奥から、何かがごっそりとえぐり取られたような感覚。代わりに押し込まれたのは、冷え冷えとしたガラスの破片で、息を吸うたびに内側をぎりぎりと切り刻んでくる。

 視界が滲む。涙は溢れてくるのに、声は出なかった。喉の奥いっぱいに、悲しみと絶望がつかえている。息が詰まりそうだった。

 私は信じていた。たとえ彼に愛されなくても、子供にはせめて、名目だけでも「父」と「母」のそろった家を――私がかつて羨んでやまなかったものを与えられると。

 でも今になってようやく気づく。

 私は間違っていた。ひどく、とんでもなく。

 望まれもしない。父親に愛されるどころか、嫌悪され、否定される子供が、冷たくひび割れた家庭の中で育つなら――それは、私が孤児院で過ごした日々より、もっと残酷で惨めな環境になるに違いない。

 後藤辰和。あなたに、私の子供の父親を名乗る資格なんてない。

 全身を、これまで感じたことのない冷気が走り抜けた。決意という名の寒流が、涙も、弱さも、根こそぎ凍らせていく。

 私は一歩、また一歩と後ずさり、地獄への入口のように口を開けている書斎のドアから離れた。中の二人は、私の気配になど気づきもしない。

 二階のテラスに出ると、夜風が熱を持った頬を撫でていった。冷たさが、むしろ頭を冴えさせてくれる。

 スマホを取り出す。画面の淡い光が、血の気の引いた私の顔を照らした。そこにあるのは、震えることを知らない固い意志だけ。

 彼と結婚するために手放したものの数々が、滑稽な冗談のように胸に浮かんだ。

 きっと彼は知らない。いや、知ろうともしない。私は彼の添え物でもなければ、役立たずの花瓶でもない。

 十代の頃にはすでに国内トップクラスのコンピュータ協会の一員となり、キーボードを叩くことへの情熱は、かつて彼へ向けた恋情と少しも変わらない。

 少し冷えた指先で画面をなぞる。ほとんど忘れかけていた番号を呼び出した――堀内逸弥。

 大学時代の先輩であり、私をトップハッカーチーム「星火」スタジオへと導いてくれた人。

 祖母が「そばにいてほしい」と願ったから。そして、「立派な後藤家の奥さん」になろうと決めたから。私は一度、そこから離れた。

 でも今は違う。お腹の中のこの子のために。そして、この哀しい後藤家から去るために。私は前倒しで準備を始めなければならない。この子と二人で生きていけるように。

 コール音が二度鳴ったところで、電話は繋がった。受話口から、変わらない穏やかで、どこか気遣わしげな声が届く。

「ねね」

 胸の奥から、大学時代の記憶が溢れ出す。自然と、口元が緩んだ。

 結婚してからの二年と比べれば、キャンパスで過ごした四年間は、間違いなく私の人生でいちばん輝いていた時間だ。

 あの頃の私は、冷たく広い寝室でひとりきり、涙を流すこともなかった。夜半に叩き起こされて、何のぬくもりもないはけ口にされることもなかった。

 ただ、コンピュータの光だけが、私の生活を暖かく照らしていた。

 こんなにも懐かしく、真っ直ぐな呼びかけを聞いてしまうと、さっき浴びせられた氷のような言葉との落差に、鼻の奥がつんと痛んだ。けれど、私はそれを力ずくで押し込める。

 声は不思議なほど静かだった。水面ひとつ乱さないほどに。その裏側に、退路を断つような強い覚悟を隠して。

「堀内逸弥」

 深く息を吸い込み、心を整えてから、もう一度口を開く。

「戻ることにしたの」

「スタジオ、まだ私の席、空いてる?」

 わずかな沈黙のあと、受話口の向こうで彼が息を呑む音がした。すぐに、隠しきれない喜びと、全面的な支持が乗った声が返ってくる。

「もちろんだよ! ねねの席はずっと空けてある。みんな、ずっと帰りを待ってた」

「明日行く」

 私は迷いなくそう告げ、遠くの街に瞬くネオンを見つめた。冷たく鋭い、自分でも見たことのないような眼差しで。

「その前に、一つ頼みたいことがあるの」

「何でも言って」

「離婚協議書を作ってほしい」

 彼の親友には、若くして名を馳せた、全国的に知られる敏腕弁護士がいる。後藤辰和から逃れるには、そのレベルの腕が必要だ。

 堀内逸弥は少しも驚いた様子を見せなかった。ただ、声にほんのりとした心配の色を滲ませる。

「分かった」

 通話を切ったあとも、私はしばらくの間スマホを握りしめていた。その小さな端末から、何か力を分けてもらうように。

 後藤辰和。あなたが要らないと言ったこの子は、私がもらう。

 あなたが見下している出自も能力も、ここから先、私が生きていくための武器になる。

 あなたが主導した、この馬鹿げた結婚は――もう終わりにする。

 私の未来は、私の手で選び取る。

前のチャプター
次のチャプター