第8章

堀内逸弥からの電話は、ほどなくしてまたかかってきた。今度の声には、隠そうともしない喜びがにじんでいて、少し取り乱しているようにも聞こえる。

「ねね、スタジオのドアはいつでも君のために開いてるからな」

受話器越しに伝わってくるその昂ぶりは、しばらく忘れていた「そっち側の世界」の温度を帯びていた。

凍りついていた心に、細い亀裂がひと筋走る。そこから、かすかな光が差し込んでくる。

「ありがとう」

まだ声は少し掠れていたけれど、できる限り平静を装って答える。

「何がありがとうだ。分かってるか? お前が引退して寿退社したあと、業界のトップフォーラムじゃ『N様を探せ』『N様復活を土下座で懇願するスレ』が乱立して、ずっとお祭り状態なんだぞ」

その言葉に、思わず久しぶりの笑みがこぼれた。

「お前が昔、片手間に書いたコードフレームなんか、今でも聖典扱いされてる。毎日、山ほどの連中が研究しては解読合戦してんだからな」

N様。

久しく呼ばれなかったそのハンドルネームは、一瞬で、記憶の奥の埃をかぶった小箱を開くための鍵になった。

その箱の中に詰まっているのは、後藤の妻としての屈辱的な我慢でもなければ、後藤辰和へのおそるおそるの片想いでもない。温水寧凪という一人の人間が、誰よりも輝いていた時間そのものだった。

ああ、そうか。

あの惨めな恋心のためだけに「後藤の奥さん」という檻の中に自分を閉じ込め、塵ほどに自分を貶めていた間も。外の世界には、こんなにも私を覚えていて、私の価値を認めてくれる人たちがいたんだ。

深く息を吸い込む。込み上げそうになった弱々しい涙を、力ずくで押し戻した。

違う。過去に泣いている暇なんてない。これからの道を、自分で敷き直していかなきゃいけない。

一刻も早く、この檻から抜け出したい。人生という大海原で、私はあまりにも長く針路を誤っていた。そろそろ本来の航路に戻らないと。

「今すぐ、仕事が欲しい」

そっとお腹に手を当てる。小さな命が、これまでにないほどの覚悟を与えてくれる。

堀内逸弥は、私の意図をすぐに理解したらしい。声色から興奮の色が引き、仕事モードの落ち着きが戻る。

「ちょうどいい。商業用の基幹システム案件がある。相手はトップクラスの財閥。予算は上限なし、その代わり要求は桁違いだ。腕の立つやつを指名してきててな、正直頭を抱えてたところなんだ」

トップ財閥。

予算、上限なし。

そんな肩書きにふさわしく、そんな台詞を平然と口にできる人物――心当たりは、ひとりしかいない。

胸の奥を、一瞬だけ冷たい違和感が掠めた。けれど、すぐにもっと強い決意がそれを押し流す。

相手が誰であろうと、今はこれが、私とこの子が生きていくための第一歩。

何が立ちはだかろうと、もう引き返すつもりはない。

「資料、送って」

必要なことだけを告げる。

通話を切ると、私はほとんど迷いもなく、長いあいだ沈黙していた一つのサイトを開いた。インターフェースこそ古臭いが、ハッカー界では揺るぎない権威を持つフォーラムだ。

骨の髄まで染み込んでいるアカウントとパスワードを打ち込む。

次の瞬間、DMとメンションのアイコンが狂ったように点滅し始め、未読数は目に痛い「99+」に跳ね上がった。私は人気スレッドをいくつか開いていく。

【N様引退から三年。会いたい、会いたい、やっぱり会いたい!】

【N様のいない国際ハッカー大会なんて、魂の抜けた抜け殻だろ】

【伝説のN様コードを掘り起こしてみたスレ 誰か解説頼む!】

【定期:N様は今日、復活しましたか?】

一つひとつスクロールしていくたびに、画面の向こうの熱のこもった文字、狂おしいほどの崇拝と、真摯な惜別が押し寄せてくる。それは、ボロボロになった私の心臓に、温かくて強い力を注ぎ込んでくるみたいだった。

私は冷えた椅子の背にもたれかかり、まだ平らなお腹を静かに撫でた。口元には、ゆっくりと、鋭さを帯びた笑みが形作られていく。これは誰のものでもない、私自身の笑みだ。

後藤辰和。よく見ておきなさい。

あなたがいなくても、私は寄る辺のないヤドリギなんかじゃない。

私はN様。

かつてコードの世界の頂点に立ち、数えきれないほどの人間に仰ぎ見られた存在。

あなたがこの子を望まなくても、私は望む。

あなたが私たちを要らないと言うなら、私たちは自分たち自身を必要とする。

これから先、私の戦場はここ。私の価値は、私自身が決める。

三日後。堀内逸弥から送られてきた住所に従って、私は都心CBDの超高層オフィスビルの一角にあるスタジオを訪ねた。

ここは、かつて私たちがカップ麺の匂いとキーボードの打鍵音にまみれていたガレージスタジオとは比べものにならないほど、洗練されていて、プロの匂いが濃厚に漂っている。

エントランスで堀内逸弥が出迎えてくれた。私の顔を見るなり、その瞳に一瞬だけ心配の色がよぎる。けれど、それはすぐに再会の喜びに塗り替えられた。

「ねね、おかえり!」

そう言って私を中へと案内しながら、彼は声を潜めてプロジェクトの概要を説明してくれる。

「クライアントは後藤グループだ。言うまでもなく、資金力は桁違いだよ。今回の案件は、今後十年のグローバル戦略に関わる中核プロジェクトだって話でさ。向こうも相当入れ込んでる。今日は社長自らが足を運んでる」

後藤グループ――。

足が、ほんのわずかに止まった。

やっぱり、あの男。

胸の奥に、氷のような嘲笑が静かに浮かぶ。世界は、笑ってしまうくらい狭い。

会議室前の廊下まで来たとき、中から聞き慣れた声が漏れ聞こえてきた。

低くて、よく響く、骨の芯まで刻み込まれた声。

ただ今は、公的な場にふさわしい事務的な硬さと、支配者の風格をまとっている。

「このシステムのセキュリティと安定性は、最優先事項だ。失敗は許されない。後藤グループの今後を支える中核ビジネスデータは、すべてここに載る」

後藤辰和。

すぐに、柔らかく甘い、仰ぎ見る色の混じった女性の声が続いた。

「辰和、心配しなくて大丈夫よ。堀内部長が言ってたわ。伝説の『N様』を、このプロジェクトに招けたんですって。業界じゃ、N様が手がけた案件に失敗はないって言われてるのよ。あの人を動かせるなんて、本当にすごいことだわ」

「N様、か」

辰和の声には、珍しく純粋な興味と、仕事人としての真剣味が滲んでいた。

「俺も噂だけは聞いている。確かに姿の見えない化け物みたいな存在だな。本当に呼べるというなら、多少どころか、どんな代償を払っても惜しくはない」

――私を呼ぶ?

どんな代償を払っても惜しくはない?

まさか、そんな言葉がこの男の口から出る日が来るなんて。

会議室の外に立ったまま、私は自分の夫が、こんなにも丁重な口ぶりで、どうやって「私」を口説き落とすか、どうやって「私」の力を当て込んで自分の商業帝国の礎を築こうとしているのかを聞いている。

その状況は、あまりにも滑稽で、あまりにも皮肉だった。

今の彼の表情など、見なくても想像できる。すべてを掌の上に載せているような、あの落ち着いた真剣な顔。

きっと夢にも思っていないだろう。自分が必死で口説き、どんな代償を払ってもいいと言っている、その神秘のハッカー「N様」が――。

二年間冷え切った目で見下ろし、「小賢しく、子どもを使って脅す卑しい女」だと罵った、自分の妻・温水寧凪だなんてことは。

堪えきれず、喉の奥から小さく、しかし鋭く冷たい嘲笑が漏れた。

静まり返った廊下に、その笑い声はいやにくっきりと響き渡る。

会議室の中の話し声が、ぴたりと止んだ。

次の瞬間、会議室のドアが内側から勢いよく開かれる。

英俊ではあるが、いつも通り冷たく硬い辰和の顔が、そこに現れた。

場違いな笑い声を耳にしたらしく、眉間に深い皺を刻んでいる。邪魔をされた苛立ちと、常の威圧感をまとわせた視線が、探照灯のように鋭く廊下を横切った。

そして、その視線は、寸分の狂いもなく、私の顔の上で止まった。

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