第9章
そのときだった。
彼の目に宿っていた値踏みと不機嫌さが、はっきりと崩れ落ちたのが見えた。
代わりに浮かんだのは、信じがたいものを目にしたときの、呆然とした驚愕。
この世でもっともあり得ない茶番を見せつけられたかのように、表情がきしりと固まる。
その瞬間、彼の瞳孔がきゅっと強く縮んだ。
視線が、ぶつかった。
廊下の灯りは少し暗く、後藤辰和の深い眼差しの奥には、温度というものが一片も宿らない。
そこにあるのは、私が自分の手で叩き壊した、冷え切った荒野だけ。
私はその場から一歩も動かない。
避けもしないし、怯えもしない。
むしろ顎をわずかに上げて、彼の衝撃に見開かれた目を正面から受け止めた。
口元に残っていた皮肉な笑みの弧は、消えるどころか、かえって鮮やかになる。
後藤辰和。想像もしてなかったでしょう?
あなたが血眼になって探し出し、法外な報酬を積んででも手に入れたいと願ったトップクラスのコンピュータ技術者が。
今、こうしてあなたの目の前に立っている。
あなたがこの世でいちばん見下している、「温水寧凪」という顔をしたまま。
彼の目に宿った驚愕は、本当に一瞬だけだった。
錯覚かと思うほど、すぐさま消える。
直後、その瞳の奥には、さらに厚く重たい氷の層が張りつめた。
露骨なまでの敵意と、踏み込まれた領域を守ろうとする凛とした寒気が宿る。
「……なんでお前がここにいる」
抑え込んだ低い声。
疑いを許さない問いかけで、一語一語が氷の玉になって床に叩きつけられるみたいだ。
そして何かを思い出したように、もう一度口を開く。
「つけてきたのか?」
つけてきた、だって?
その自意識過剰ぶりに、もう一度笑い出してしまいそうになる。
私が何か言うより早く、早乙女星奈が、怯えた小鳥みたいに彼の背後から顔を覗かせた。
そっと彼の袖口を引き、か細いのに、やけに通る声で廊下に言葉を零す。
「辰和、怒らないで。寧凪は、ただ辰和のことを大事に思いすぎて、ここまで探してきちゃったんだと思うよ。だって、寧凪は辰和の奥さんなんだもん。旦那さんの行動が気になるのは、仕方ないことだよ」
そう言いながら、困ったような、それでいて同情を含んだ目つきで、ちらりとこちらを見る。
あたかも私のために弁護している、とでも言いたげに。
本当に、火に油を注ぐのだけは天下一品。
昔の私なら、こんな言いがかりをつけられたら、きっと顔を真っ赤にして慌てふためき、必死に否定して、かえって言葉尻を捕まれ……。
最後には、彼の冷たい視線の前で、みっともなく崩れ落ちていたに違いない。
けれど今日の私は、ただ黙って立っているだけだった。
冷え切った目で、ひとりは冷酷に問い詰め、もうひとりはその背後から焚きつけている光景を眺めながら、心の水面に、もはや波紋を起こす気力さえ湧かない。
早乙女星奈の言葉が途切れるのを待って、私はようやくゆっくりとまぶたを上げた。
視線は彼女の肩越しに滑り落ち、真っ直ぐ、霜に覆われた後藤辰和の顔に突き刺さる。
口元に、ごく薄い――けれど毒を含んだ、皮肉な笑みを乗せた。
「後藤さん」
私は声を発した。
抑揚のない、静かな声音。
それでも細い針のように、彼が作り出した重苦しい空気をあっさりと突き破る。
「自分が、世界の中心だとでも思ってるんですか? 自分がいる場所には、誰も彼もが後藤さん目当てで集まってくるとでも?」
後藤辰和の眉間の皺が、ぐっと深く刻まれた。
私が、この口調で、この呼び方で話しかけてきたのが、よほど意外だったのだろう。
私は、その目に一瞬燃え上がった嵐をまるごと無視して、淡々と追い討ちをかける。
視線には、隠そうともしない嘲りを乗せて。
「私がここにいるのは、私自身の仕事のためです。あなたをつけ回すためじゃない。――後藤さん、忘れてませんか。私たち、もうすぐ何の関係もなくなるんですよ。もうすぐ“元夫”になる人のために、時間や労力を使うほど、私、暇じゃありません」
「温水寧凪!」
押し殺した怒声が、鋭く私の言葉を断ち切った。
ぐっと張り詰めた顎のライン。
私を今すぐ噛み砕きそうな、剥き出しの視線。
その背後で、早乙女星奈の顔からは、取り繕っていた弱々しさがほとんど剝がれ落ちていた。
一瞬、驚きと戸惑いが、はっきりと浮かぶ。
「後藤さん。他に、何かご用ですか?」
私は眉をひとつ跳ね上げ、怯むことなく彼の眼差しを受け止めた。
「ないなら、これで失礼します。後藤さんと早乙女さんが“大事な話”をされる邪魔は、したくありませんので」
そう言い終えるや否や、私は彼らの反応を待つこともなく、くるりと踵を返した。
ヒールが床を叩く、乾いた高音。
一歩ごとに、昔の私が抱え込んでいた卑屈さや我慢が、足の裏で音を立てて砕け散っていく。
振り返ることはない。
それでも背中には、皮膚を灼くほど鋭く冷たい視線が、いつまでも突き刺さっていた。
私はビルを出ず、そのまま堀内逸弥のモニタールームへ向かった。
巨大なスクリーンには、いくつもの映像が分割表示されている。
その中で最重要なのが、あの会議室のリアルタイム映像だ。
堀内逸弥が、湯気の立つ紙コップを差し出してくる。
心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「ねね、大丈夫?」
「大丈夫」
カップを受け取りながらも、視線はスクリーンから離さない。
「今まででいちばん、気分がいい」
画面の中では、後藤辰和と早乙女星奈が、既に会議室へ戻っていた。
後藤辰和は上座に腰を下ろし、表情は一見静かだが、指先でテーブルをとん、とん、とリズムを刻んでいる。
これは彼の、忍耐が削れ始めた合図。
早乙女星奈はその隣に座り、時おり身を寄せて何かを囁く。
おそらくあれこれと憶測を並べて、「N様」が遅れている理由を推理しているのだろう。
時間が、一分、一分と溶けていく。
やがて、後藤辰和の眉間の縦じわは、目に見えて深くなり、テーブルを叩く指先のテンポも速まっていった。
ふと腕時計に視線を落とす仕草の端々から、苛立ちが、スクリーン越しにも伝わってくる。
早乙女星奈の笑みも次第に引きつり、瞳には不安の影が差し始めていた。
ふたりが待っているのは、「N様」。
彼らが神様のように崇め、あらゆる難題を解決してくれると信じている、伝説のトップクラッカー。
そして、彼らの視界の外で――。
後藤辰和から「打算深くて、何の取り柄もない妻」だと見下されている私が、モニターの前で脚を組み、のんびりと彼らの焦燥を眺めている。
まるで熱された鉄板の上でもがく蟻でも見るように。
胸の奥で冷たい感情が膨れ上がる。
そこに、どうしようもなく甘い、復讐の味が混じっていく。
「堀内逸弥」
私は手の中の紙コップを軽く揺らしながら、軽やかな――けれど全てを掌の上で転がす者の声で口を開いた。
「後藤グループの担当者に伝えて。“N様”は急な用事が入ったから、連絡が少し遅れるかもしれないって。それから、“N様”のスケジュールはかなり埋まっているから、ギャラの方も再検討が必要かもしれないって、におわせて」
堀内逸弥は、すぐに私の狙いを理解したらしい。
驚きに目を瞬かせ、次の瞬間には、「やるじゃん」と言いたげな笑みと、力強い頷きに変わる。
「了解。足元を見て釣り上げるってわけか。あいつはこのシステムのためなら、絶対に飲む」
「そういうこと」
私は一口、ぬるくなった水を含み、視線を細めた。
「彼には待つ余裕も、負ける余裕もない。彼にとって、このシステムは後藤グループのこれから十年の命綱。何より優先すべきものよ」
そこで一度言葉を切り、ほんの少しだけ口角を上げる。
「離婚前に、こういう形でたっぷり“養育費”の前払いを引き出せるなら、楽しんどかないと損じゃない?」
堀内逸弥は「さすがねね」とでも言いたげに肩をすくめ、すぐさま連絡に動いた。
モニターの中で、後藤辰和が電話を取る。
おそらく、堀内が手配した窓口の誰かだ。
通話の最中、彼の表情はみるみる険しくなっていく。
眉間に深い皺を刻み、何か短く言葉を返し――最後には、ひどく不本意そうに頷いた。
折れたのだ。
正体も知らない「N様」のために、条件の上乗せを受け入れた。
彼だって、譲歩しないわけじゃない。
ただ、残念なことに。
見知らぬ外部のエンジニアにはできても、妻だった私のためにだけは、決して一ミリも譲らなかった。
そのとき、ポケットに入れていた私用のスマホが、かすかに震えた。
取り出して、画面をスワイプする。
開いたのは、ごく限られた相手とのみ繋がっている、完全非公開の連絡アプリ。
“N様”という仮の顔を持つときだけ使う、もうひとつの通信回線だ。
そこに――新しいフレンド申請が、一件。
表示された認証メッセージは、やたらとへりくだっていて、どこか卑屈な響きさえ帯びていた。
