第1章

まさか、こぼれたコーヒーが運命の転換点になるとは、夢にも思わなかった。

秋葉家に見つけ出されたあの日、私がカフェで理不尽な客に相手をさせられていた。

注文したのはアメリカンコーヒーだったはずなのに、ラテを頼んだと主張し、態度が悪いという難癖をつけられ、自分に非がないことが分かっても、ただひたすら頭を下げるしかなかった。

「お前みたいな育ちの悪いクズは、こんな店で働く資格なんてねえんだよ!」

ついに客の怒りが爆発し、テーブルの上のコーヒーカップを掴んで、私の顔めがけて中身をぶちまけた。

煮えたぎるような液体が空中に弧を描いて、反射的に目を閉じた。。だが、予想された痛みは訪れなかった。

コーヒーがかかる寸前、誰かが猛然と私の前に飛び込んできたのだ。

「きゃあっ!」

鋭い悲鳴が響いた。

目を開けると、ピンクのスーツを纏った女性が私の前に立ちはだかって、コーヒーはすべて彼女の整った顔立ちと高価そうな衣服にかかっていた。

「凛奈!なんてことだ!」

ちょうど入店してきたばかりの、仕立ての良い服を着た中年の男女が、恐怖に顔を歪めて駆け寄ってくきた。

華やかな雰囲気の婦人は、凛奈と呼ばれた女性のそばへほとんど飛びつくように駆け寄り、震える声で言った。

「顔が!ああ、火傷してない?」

一方、男性のほうは客へと向き直り、冷徹な声は氷のように。

「お客様。直ちに立ち去ることをお勧めします。さもなくば、店側に警察への通報を求めるだけでなく、秋葉家を敵に回すことの意味を骨の髄まで理解させて差し上げることになりますが」

客の顔色は一瞬で青ざめ、しどろもどろに謝罪を口にすると、数枚の紙幣を投げ捨てて慌てて逃げ出した。

私はその場に立ち尽くし、あまりに突然の出来事に呆然とするしかなかった。

「私は大丈夫よ、お母様」

凛奈という女は無理に微笑んで見せたが、強く噛まれた下唇と震える指先が、その苦痛を物語っていた。

「それより……妹のことを……」

妹?

その時、中年夫婦はようやく困惑してる私へと注意を向けた。

華やかな婦人が私を見た瞬間、その瞳から大粒の涙が溢れ出し、手を伸ばして触れるのをためらっているようだった。

「やっと、見つけたわ」

「え?私を、ですか?」

私は一歩後ずさりした。

すべてが唐突すぎて、脳の処理が追いつかない。

その時、凛奈が苦しげな呻き声を上げ、顔を押さえて椅子に崩れ落ちた。

「ごめんなさい……私……ちょっと、もう無理かも……」

「凛奈!」

中年夫婦の意識はすぐに彼女へと引き戻された。

男性は即座に決断を下した。

「ここは話をする場所じゃない。すぐに凛奈を病院へ連れて、火傷の手当てをさせなければ」。

そして私に向き直り、その瞳に複雑な感情は浮かんだ。

「桜井夜月さん、だね?君も一緒に来なさい。君に伝えなければならない、とても重要な話があるんだ」

断ろうとしたが、店長がすでに飛んできて、何度も頭を下げていた。

「秋葉様、誠に申し訳ございませんでした!桜井、君はもう上がっていいから」

こうして私は、見ず知らずの人々にカフェから連れ出され、私の全財産よりも高価的な高級車に乗せられた。

車内の本革シートの感触がひどく居心地悪く、こっそりと車内の様子をうかがった——凛奈という名の女性は絶えず小さな呻き声を上げ、秋葉夫妻は交代で彼女を慰めている。

私の存在など忘れてしまったかのようだった。

病院に到着すると、彼らは明らかに常連客の扱いを受けており、待ち時間もなく豪華な個室の診察室へ案内された。

医師がまず凛奈の火傷を処置し、その後、秋葉夫人の強い要望で私にも検査を受けた。

「栄養失調ですって?」

検査報告書を見て、秋葉夫人の目から再び涙が溢れ出した。

彼女が私の手を掴んだが、その力が強すぎて痛いほどだった。

「どうしてなの?どうして栄養失調になんて?」

私は気まずくなって手を引っ込めた。

「私……孤児院で育って、その後は自分でバイトして生活してるので、たまにあまり食べられないこともあって」

秋葉夫人が口元を押さえ、背を向けて嗚咽を漏らした。

隣の中年男性は大きく深呼吸し、死地に赴く戦士のような表情で私を見つめていた。

「君に、大事な話がある」

「何の話ですか?」

私は尋ねた。

心臓の鼓動が早くなった。

この人たちは明らかに普通の人ではない、それなのに私を知っているようで、あの凛奈という女性に至っては私を「妹」と呼んだのだ。

「二十三年前、病院で娘が取り違えられたんだ……」

彼は単刀直入に言った。その声は鉛のように重い。

「最近、DNA鑑定を行って確認された、私たちの実の娘は君なんだ」

すごく目眩した。

こんなこと、ドラマの中だけの話じゃないの?

「そんな……まさか……」

「これがDNA鑑定の報告書だ」

差し出してくれた書類には、私の理解できないデータがびっしりと並んでいたが、最後の結論だけは明白だった。

『親子関係肯定、確率99.9999%』。

手は震え、私の心には荒波が巻き起こっていた。

幼い頃から、孤児院のベッドで寝返りを打ちながら、何度も実の両親を見つける場面を夢想してきた。

どんな人たちだろうと想像し、なぜ私を捨てたのかと考え続けた。

そして今、答えが突然目の前に突きつけられたのだ——私は捨てられたのではない。

ただ、奪われてしまっただけだったのだ。

「今まで、本当に辛い思いをさせてしまったわね」

秋葉夫人が私の手を握りしめ、涙を流し続けた。

「もっと早く見つけてあげられていれば……」

その手の温もりに、胸が熱くなった。

これは、母の手だ。

私の、お母さん。

その思いが心を柔らかく解きほぐし、二十三年間漂流し続けてきた私の魂が、ようやく停泊できる港を見つけたような気がした。

私は病室の方を見やった。

「あの……凛奈さんはこのことを知っているんですか?」

「あの子は知っている」

秋葉氏は重々しく言った。

「一昨日、真実を伝えたばかりだ。あの子にとっても大きなショックだっただろう」

秋葉夫人が言葉を続けた。

「「いずれにせよ、あなたには秋葉家に戻ってきてほしい。私たちの実の娘なのだから、当然、あなた属するすべてのものを受け取る権利がある。ただ…凛奈も二十三年間育ててきた我が子だ。彼女を見捨てることはできない。二人の娘には仲良くやっていってほしいと願っている」」

その時、凛奈が病室から出てきた。

顔にはガーゼが貼られ、大半を覆っていたが、その美貌は隠しきれていない。

彼女はまっすぐに私の方へ歩み寄ると、両腕を広げて私を抱きしめた。

「お帰りなさい、妹」

窒息しそうなほど強く抱きしめられ、彼女は私の耳元で囁いた。

「私たち、最高の姉妹になれるわよね?」

その声は甘美だった。

だが、彼女が体を離した瞬間、その瞳の奥に背筋が凍るような冷たい光が走り、また瞬く間に消え失せた。

見間違いだったのかと疑うほどの一瞬の出来事だった。

「今日から、あなたは秋葉夜月よ」

秋葉夫人が感無量といった様子で、家族団欒の幸福な情景を思い描いているようだった。

私も引きつった笑みを浮かべたが、心の中は不安で満たされていた。

すべてがあまりに突然で、あまりに現実感がない。

今朝までは生きるために必死に足掻くただの孤児だった私は、突然名門の令嬢となり、「姉」と両親、そして全く新しい身分を手に入れたのだから。

次のチャプター