第2章
今の自分の反応が、たまらなく嫌だった。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。彼が生まれながらに放つ圧倒的な威圧感は、前世では私を狂わせるほど魅了したが、今生ではただ息を詰まらせるだけだ。
彼の視線が私を舐めるように通り過ぎ、ある一点でピタリと止まった。視線を落とすと、自分の手がまだあの銀髪のバーテンダーの腕に乗せられたままだった。
クラブの支配人が、滝のように汗を流しながら駆け寄ってきた。
「お客様方、誠に申し訳ございません。VIPエリアの緊急メンテナンスが入りましたため、本日のご飲食代はすべて無料とさせていただきます。恐れ入りますが、皆様……」
彼の言葉を最後まで聞く者はいなかった。フロア中の客が、まるで避難でもするかのようにそそくさと出口へ向かい始めた。金曜の夜に『ヴォルテックス』が貸し切りになることなどあり得ない。――彼が来ない限りは。
私も踵を返し、人波に紛れて立ち去ろうとした。
だが二歩も歩かないうちに、スーツ姿の男たちがすべての出口を塞いでいるのが見えた。彼らは誰を引き留めるでもなく、ただそこに立っているだけだ。しかし、その方向へ進もうとする者は皆、見えない壁にでも阻まれたかのように、無意識のうちに向きを変えていく。
柚人が私の目の前に立ち塞がった。
「車は入り口だ。自分の足で歩いて出るか、俺の部下に『ご案内』させるか、好きに選べ」
このクラブも、セキュリティも、彼のもの。この街の産業の半分は彼の一族が握っている。
私に選択肢などあるはずもなかった。
「お構いなく」
彼が開けてくれたドアから車に乗り込んだ瞬間、カチャリと冷たい音を立ててロックが掛かった。
後から乗り込んできた柚人はシートに深く背を預け、ミネラルウォーターのボトルを手に取ってゆっくりとキャップを捻った。
「この車のガラスは防弾仕様で、ロックも特注だ。試してみてもいいが、無駄な体力は使わないことをお勧めする」
私はただ、窓の外をじっと見つめていた。
沈黙という名の三番目の乗客が、私たちの間に居座っているようだった。
三十秒ほど経った頃だろうか。柚人が突然、こちらへ身を乗り出してきた。
オーデコロンの香りが瞬時に私を包み込む。彼の顔がすぐ目の前まで迫り、伏せられた長い睫毛のカーブまではっきりと見て取れた。
「一族には、未来の嫁に対する行動規範というものがあってね」
ひどく低い声だった。紡がれる言葉の一つ一つが、耳元で弾けるように響く。
「メディアに撮られる可能性のある場所では、一族の体面を損なう振る舞いは一切慎むこと。泥酔、露出の多い服装、異性との過度な接触。これらはすべて禁止事項だ」
彼は元の姿勢に戻ると、視線をスマートフォンの画面へと落とした。
「お前は今夜だけで、少なくとも七つの項目に違反している」
まただ。前世で私を徐々に擦り減らし、死へと追いやったあの忌まわしいルールの数々。
「明日にでも一族のイメージコンサルタントを向かわせる」
彼は画面をスクロールさせながら、まるで業務報告でも読み上げるかのような淡々とした口調で続けた。
「土曜のチャリティーパーティーのドレスは、アシスタントに用意させてある。上品な笑みを心がけろ。口角を上げるのは三十度までだ。シャンパンは一杯だけ。それから――」
私はもう耐えきれなかった。
「あなたの婚約なんて、私には関係ない! 私は絶対に結婚なんてしないから!」
柚人はゆっくりと顔をこちらへ向けた。その瞳は、これまで見たこともないほど深い闇の色に染まっていた。
「……もう一度言ってみろ」
その一言で、一瞬にして理性が引き戻された。
婚約はすでにすり替えてある。十億円の入金も確認済みだ。もし今彼に気づかれでもしたら、お金は回収され、海外へ逃げる計画もすべて水の泡となり、私は永遠にこの鳥籠に閉じ込められることになる。
「私はただ……」
大きく息を吸い込み、無理やり自分を落ち着かせた。
「少し、カッとなっただけ。今の言葉は忘れて」
柚人は数秒ほど私をじっと見据えていたが、やがて何かを押し殺すように深々と息を吐き出した。
「我が儘には常に代償が伴う。――お前はいつになったらそれを理解するんだ?」
私は口を噤み、再び窓の外へと視線を向けた。
流れる街の景色が飛ぶように後ろへと消えていく。私は心の中で密かに日数を指折って数えた。
あとどれくらいか。あとどれくらい耐えれば、私は本当の自由を手に入れられるのだろう。
車が白瀬家のプライベートクラブの前に停車した。ドアを押し開けて降りた瞬間、ロビーから歩み寄ってくる澄花の姿が目に入った。
シャンパンゴールドのロングドレスに、パールがあしらわれたネックレス、そして隙のない完璧なメイク。彼女の全身からは、優しさと気品、そして一分の非の打ちどころもないオーラが漂っていた。
「柚人!」
蜂蜜のように甘ったるい声だった。
「お待ちしてた。白瀬叔母さんに頼まれて少し早めに来て、お席とメニューの手配を済ませておいたの。そうだ、お姉ちゃん最近少しお疲れみたいだから、厨房にお願いして好きなものを用意してもらったの」
彼女はこちらへ向き直り、心配でたまらないといった瞳を向けてきた。
「お姉ちゃん、体調は大丈夫?」
背中の大きく開いた私のドレスをなめ回すように見つめるその瞳の奥からは、隠しきれない優越感が溢れ出していた。
ほらね、と彼女の表情が雄弁に語っている。彼の隣に立つべきなのは、私の方なのだと。
柚人の視線が、私と澄花の間をせわしなく行き来する。あまりにも残酷なまでの対比。彼の頭の中で下されているであろう評価の声が、私には手に取るように聞こえた。
「お前たちは二人とも冬木の名を冠しているというのに」
彼はひどく疲れた顔で、深いため息を漏らした。
「どうして彼女は責任感と分別を知っているのに、お前は俺に迷惑ばかりかけるんだ?」
「中に入って着替えてこい。今夜の集まりは重要だ。お前は俺が選んだ婚約者なんだ。これから先、どんな場でもお前には俺の隣に立ってもらう。責任感というものを少しは学べ」
前世の私は、努力さえすれば彼に愛してもらえると信じていた。彼が望む鋳型に自分を無理やり押し込み、粉々に砕け散るまで必死に演じ続けた。
けれど、今ならはっきりとわかる。
彼は最初から、私自身など求めてはいなかったのだ。彼が必要としていたのは、基準を満たした見栄えの良い展示品――「白瀬夫人」というラベルを貼るにふさわしい、完璧な商品でしかなかったのだと。
