第104章 他人の苦しみを味わわずに

「ママ、行かないで……ママのそばにいたい……」

九条杏奈は唇をきゅっと噛み、どうにかここに残ろうとする。

温井知夏はすっと表情を落とし、声から温度を奪った。

「立って。行くよ」

その視線に押しつぶされるように、杏奈はソファからのろのろ降りる。知夏は眉をわずかに上げ、先に歩き出した。

小さな足音が、渋々と後ろに続く。

二人が玄関を出た。

「……奥さ――温井さん」

待っていた秘書の小林友岡が、反射的に呼びかけかけて言い直す。

相手が九条司ではないと分かった瞬間、知夏の顔の冷たさがほんの少しだけほどけた。

「小林秘書。杏奈をお願い」

小林友岡は頷き、膝を折って手を差し出す。

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