第2章 目覚めた後に引っ越して住むことを決める
目の前の光景が、あまりにも滑稽で、笑えてしまった。
あの三人こそが家族に見える。
一方の自分は、よその家庭を壊す不倫相手みたいだ。
九条知夏は疲れ切っていた。早くこの場から退きたくて、口元だけで笑う。
「コンサート、もうすぐ始まるんじゃない? 行かなくていいの?」
三人が一瞬、固まった。
九条杏奈が目を丸くする。
「ママ、なんで私たちがコンサート行くって知ってるの?」
清水環奈は知夏をしばらく見つめ、ふっと柔らかく笑った。
「知夏も、一緒に行きましょうよ」
「やだ!」杏奈が即座に首を振る。「ママは音楽わかんないもん。行っても退屈して寝ちゃうだけ。恥ずかしい!」
彼らは知らない。
知夏は大学で音楽を副専攻し、ピアノもヴァイオリンも弾けた。ただ「主婦」という枠が、それを手放させただけだ。
九条知夏は小さく笑い、凪いだ声で言った。
「私は行かない。だって、私のチケット買ってないでしょ」
その一言で、三人の顔に気まずさが落ちた。
「……何を急におかしなこと言い出す」九条司が声を落とし、苛立ちを滲ませる。「買い忘れただけだろ。嫌味ったらしく言うな」
こういう言いがかりには、もう慣れていた。
九条知夏は眉をわずかにひそめ、うんざりした声で返す。
「最初から行く気なんてなかったの。勝手に決めつけないで」
「まあまあ」環奈が慌てて知夏の腕を取る。甘く柔らかな声で宥めた。「子どももいるし、喧嘩はやめましょう」
——この女の本性を知らなければ、今の「善良さ」に騙されただろう。
結婚して間もない頃。匿名番号から呪詛みたいなメッセージが、何通も知夏のスマホに届いた。司に訴えても、彼は取り合わず「大げさだ」と笑った。
あとで通信会社勤めの友人を通して知った。番号の持ち主は、どれも清水環奈だった。
司に言っても信じてもらえず、知夏はやがて説明するのをやめた。
思い出が胸の奥で燃え、知夏は環奈の手を振り払う。
冷ややかに見据えた。
「うちのことに、いつからあなたが口を挟む立場になったの?」
環奈が気まずそうに固まり、次の瞬間にはいじけたような目で司と杏奈を見上げる。
杏奈が指を突きつけ、声を張り上げた。
「ママってケチ! パパが環奈ちゃんに優しいの、嫉妬してるんでしょ! 悪いママ! きらい!」
九条知夏の心が、すとんと冷え切った。
夫の冷たさだけなら、まだいい。
娘まで自分を嫌うなら——この家にいる意味は何だろう。
九条知夏は何も言わず、無表情のまま背を向けて歩き出した。
別邸へ戻ると、荷造りを始めた。
本当は、最後の一か月だけでも夫と娘に寄り添うつもりだった。でも、もう必要ない。
外で暮らすことに決めた。
夕方になって、ようやく父娘が帰ってきた。
玄関を開けるなり、杏奈がはしゃぐ。
「今日のコンサート、最高だった! 環奈ちゃんのヴァイオリン、すっごく上手! 私、いちばん好き!」
司がリビングへ入るなり、知夏が荷物をまとめているのを見て顔を曇らせた。
「……何してる」
冷たく問い詰める声。
知夏は手を止めず、顔も上げない。
「少し、外に泊まるだけ」
「外に?」司の怒りが跳ねる。「知夏、コンサートのチケット一枚で家出か? 俺が虐めたみたいにしたいのか」
知夏は争う気も失せていた。
ふと手を止め、娘を見て問う。
「杏奈。……本当に清水環奈が好きなの?」
杏奈は勢いよく頷く。
「うん! 環奈ちゃん、きれいで優しくて、遊んでくれて、おいしいの買ってくれる! いちばん好き!」
「じゃあ、私は?」知夏が重ねる。
杏奈は少し迷って、唇を尖らせた。
「ママは洗濯とごはんだけ。甘いのも食べさせてくれないし……環奈ちゃんと比べたら全然だもん」
その瞬間、心が死んだ。
「分かった」知夏は静かに頷く。「じゃあ私が出ていったら、環奈ちゃんに来てもらって、あなたの面倒見てもらう? いい?」
「ほんと?」杏奈の目がぱっと輝き、手を叩く。「ママ、言ったからね! 約束だよ!」
知夏はもう一度、頷いた。
「知夏、いい加減にしろ!」司が割り込む。「子どもの前で、そんなくだらないことを。母親らしくない!」
知夏は彼を見て、妙に可笑しくなった。
「どうして私の言うことは、何から何まであなたの目には間違いに見えるの?」
淡々と問い返す。
「あなたと杏奈が望んでることでしょ。叶えてあげるのが悪い?」
いつもなら、娘の前で夫に逆らわない。両親の不仲という影を、娘の心に落としたくなかった。
でも今は——誰も、知夏の気持ちなど気にしない。
結局、険悪なまま散った。
その夜、知夏はいつものように絵本を開いて娘を寝かせなかった。書斎で眠った。
夜中、喉が渇いて水を飲みに出たとき、娘の部屋から小声が漏れた。
「環奈ちゃん、ママのあのババア、もうすぐ出ていくんでしょ? いつ住みに来てくれるの? ずっと一緒にいてほしい……」
暗い廊下で、知夏は立ち尽くす。胸が裂けるように痛い。
自分で言った。環奈が来ればいいと。
それでも「ババア」と呼ばれるだけで、心臓がぎゅっと締め付けられた。
翌日、幼稚園から電話が入った。杏奈が体育の授業で転び、膝を怪我したという。
急いで向かった知夏は、門の警備員に止められる。
「失礼ですが、どなたに?」
「九条杏奈の母です。迎えに来ました」
警備員は訝しげに彼女を見回した。
「ですが、九条杏奈さんのお母さまは、もういらしていますよ」
背筋が冷たくなる。言い返そうとした、そのとき——校庭から幼い声が飛んだ。
「杏奈、ママすっごくきれい! テレビのスターみたい!」
声の方を見ると、清水環奈が杏奈のそばにしゃがみ、赤く腫れた膝に薬を塗っていた。周りには羨望の目をした子どもたちが輪を作っている。
杏奈は否定しないどころか、誇らしげに胸を張った。
「でしょ! うちのママはフランス語もできてヴァイオリンも弾けるの。世界一すごいママなんだ!」
知夏の胸がきゅっと縮む。
——今、杏奈が言った「ママ」は、自分ではない。
警備員が校庭へ歩いていき、杏奈に知夏を指して尋ねた。
「あちらの女性が『お母さまだ』とおっしゃっているのですが……お嬢ちゃん、知っている人ですか?」
子どもたちの視線が一斉に知夏へ向かい、次いで杏奈へ移る。
「杏奈、ママが二人いるの?」無邪気な男の子が首を傾げた。
