第6章 離婚の準備

「そうしたら環奈ちゃんが、わたしのママになれる!」

四歳の娘が両手を叩いてはしゃぐ姿を見て、九条知夏の胸の奥が、すうっと冷えた。

――これが。身を削って育てた、娘。

心臓の鈍い痛みが勝手に脈打つ。知夏は息を深く吸い、残る痛みを押し沈めて、かすかに笑った。

「そうね。パパが今、私との離婚に同意すれば……環奈ちゃんが、これからあなたのママになるわ」

九条司が、鋭い目で知夏を射抜く。

「本気で言ってるのか」

「もちろん」知夏は口角だけを上げた。「でも、もう夜だし。明日の朝いちで手続きに行きましょう」

少し間を置いて、淡々と続ける。

「娘は私のことが嫌い。だから親権はあなたでいい。養育費は毎月、振り込む」

娘が母を拒んでも、産んだ責任まで消えるわけじゃない。どれほど失望しても――そこだけは捨てられない。

ただ、それ以上はもうない。

知夏は自嘲するように唇を歪めた。注いだ愛は、娘にとっては重荷でしかなかったのだろう。夫の愛も娘の愛も、すべて清水環奈に流れていった。

期待はしない。

苦心して守ってきた家も、かつて命みたいに愛した男も、四年抱いて育てた娘も――全部、要らない。

離婚の段取りをさらりと口にする知夏を前に、九条司の顔色はむしろ悪くなる。

以前は、離婚を考えたことなど幾度もあったはずなのに。いざ知夏の口から突きつけられると、胸の奥が妙にざわついた。

清水環奈が息を詰め、九条司の横顔を見つめる。今度こそ「同意」を聞きたいという目で。

「パパ、早く答えて!」九条杏奈が急かす。

知夏は小さく笑い、背中を押すように言った。

「娘も待ちきれないって。早く答えたら? 離婚したら、あなたたち父娘は好きにすればいい」

知夏が言葉を重ねるほど、九条司の顔が険しく歪み、暗い影が落ちていく。

三人とも、九条司が同意すると確信しかけた、その瞬間。

九条司は吐き捨てた。

「離婚はしない。二度と言うな」

それだけ言い残し、家の中へ入っていった。

清水環奈の顔に、露骨な落胆が浮かぶ。

それに気づいた九条杏奈が慌てて追いかける。

「パパパパ、なんで悪いママと離婚しないの……」

無邪気で残酷な声が、知夏の耳を刺す。胸の痛みは、とうに麻痺していた。

清水環奈が立ち上がる。もう取り繕いもしない。得意げに唇を吊り上げる。

「知夏。司が今すぐ離婚に同意しなかったからって、まだあなたに気持ちがあるとか思わないで。子どものためよ。勘違いしないことね」

知夏は黙ったまま、掌の中で指を折るように拳を握り締めた。

残酷だ。十年以上も愛した女に浴びせる言葉としては。

けれど、事実でもある。

清水環奈の目は嘲りで満ちる。

「昔、あなたは汚いやり方で司をはめた。彼はあなたを心底憎んでる……それなのに子どもを盾に九条家と司を縛って、司の両親に無理やり結婚させた。――でもね」

一息、甘く息を吐いて言い切る。

「司の心は一度もあなたに向いたことなんてない。最初から最後まで、愛してるのは私だけ」

「あなたの負け。完敗よ」

知夏は胸の痛みを押し殺し、冷笑で返した。

「清水さん。浮気相手でいるのが、そんなに誇らしいの?」

清水環奈は吐き捨てる。

「恋愛で、愛されないほうが浮気相手よ」

言い残し、踵を返して去っていった。

夜風が頬を撫でる。冬でもないのに、知夏の身体はぶるりと震えた。

玄関先にしばらく立ち尽くしてから、ようやく家へ入る。

一階に父娘の姿はない。二階へ上がり、子ども部屋の前を通ると、父娘のひそひそ声が漏れていた。知夏は足を止めない。主寝室へ戻り、黙々と身支度を整える。

その夜、九条司は主寝室に戻らなかった。

知夏は久しぶりに、底まで沈むように眠った。

翌朝。

家に客が来ていた。身なりからして医師だ。九条司も珍しく家にいる。

「起きたか」

九条知夏は一瞥しただけで、返事をしない。

今日は作る気がなく、出前でも頼もうと思っていた。だがダイニングテーブルの上に、サンドイッチとミルクが置かれている。

「お前の分だ。俺と杏奈はもう食べた」九条司が説明した。

知夏は意外そうに目を瞬かせたが、拒まなかった。食べ終え、部屋へ戻ろうとしたところで――

「待て」

リビングのソファから、九条司が立ち上がる。

知夏は眉を上げる。

「市役所に行くの?」

「その言葉は聞きたくない」九条司が低く怒鳴り、知夏の腕を引いてソファへ座らせた。

「永井先生だ。胃の専門で経験がある」九条司はそれだけ言い、医師へ向き直る。「診ていただけますか」

昨夜、友人づてに「知夏が病院にいた」と耳にした。秘書に調べさせると、胃の再発だと分かった。

知夏は思わず九条司を見る。

――自分のために、医師を呼んだ?

どうして知っているのか。

永井医師が診察している間、九条司は責めるような目を向けた。

「胃が痛いなら、どうして言わない」

「言う必要がない」知夏は冷たく答える。

そのとき、九条司のスマホが鳴った。画面には『環奈』。

九条司はすぐには出ず、医師へ尋ねかける。

「永井先生、どうだ。彼女の――」

言い終える前に、着信がまた急かすように鳴った。

九条司は立ち上がり、窓際で電話を取る。

「どうした、環奈……何? 落ち着け。今すぐ行く」

通話を切って戻ってくると、顔色が変わっていた。迷いなく言う。

「永井先生、すみません。今すぐ別の場所へ一緒に来てください」

永井医師が戸惑う。

「こちらは?」

「向こうのほうが緊急だ」九条司は短く言った。

永井医師は医療バッグをまとめ、出ていった。

リビングには二人だけが残った。

知夏は無表情のまま。

九条司は眉を寄せ、言い訳めいた説明をする。

「環奈が病気だ。かなり重いらしい。永井先生を先に連れていく。お前の検査は……また今度、改めて――」

「要らない」知夏は淡々と遮った。

「また拗ねてるのか?」九条司が苛立つ。

知夏は真っ直ぐ見返し、静かに問う。

「私が、何をしたの?」

何も言っていない。見ていただけだ。環奈からの電話一本で、彼は自分のために呼んだはずの医師を連れて行く。その現実を。

「何って……」九条司は不機嫌を隠さない。「俺が永井先生を連れて行くから、また不貞腐れてるんだろ。お前はいつもそうだ。少しは分別を持て。環奈が病気なんだ」

――また、そうやって。

何も言っていないのに、勝手に「機嫌が悪い」にされる。勝手に「面倒」にされる。

そこへ、階段を降りる小さな足音。

九条杏奈が、父の最後の言葉をちょうど拾った。

「パパ、環奈ちゃんが病気なの? ひどいの?」九条杏奈は父の脚に抱きつく。「私もお見舞いに行く!」

九条司は知夏には構わず、吐き捨てる。

「知夏。家で反省してろ。面倒を増やすな。帰ってきたら話す」

九条杏奈も、眉をつり上げて言う。

「悪いママ、パパの言葉聞いたでしょ。ちゃんと大人しくしてよ。なんでいつも環奈ちゃんに意地悪するの。病気なのに、ほんと嫌い」

父娘は口々に知夏を責め、そのまま足早に出ていった。

屋敷は一気に静まり返る。

知夏はソファに座ったまま、長い時間を過ごした。やがてスマホが通知音を鳴らす。

清水環奈の投稿だった。

「具合が悪いときに、世話してもらえるって幸せ」

写真には、ぼやけた男の横顔と、娘の小さな背中。父娘の視線の先には、いかにも儚げな環奈の姿しかなかった。

知夏はそれを見つめ、しばらくして低く笑った。心が灰になっていく。

スマホを握り締め、ようやく現実が見えた。

この家は、いつの間にか氷の洞窟になっていた。

知夏は微塵の未練も置かず、立ち上がって二階へ向かう。

その日、彼女は一人で離婚協議書を作った。さらに同日配送で小型カメラを複数注文し、屋内の数か所に設置していく。

離婚するなら、浮気の証拠を集める。最後の戦いに勝つためだ。

設置を終えると、九条司がこれまで贈ってきたものを片っ端から箱詰めした。捨てられるものは捨て、売れるものは売る。

――出ていく時だ。

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