第3章
哲平が出て行ったあと、私は寝室に戻り荷造りを始めた。廊下を通る際、肘がうっかり観葉植物に当たってしまう。「ガシャン」と派手な音がして、鉢が割れ、土が床にぶちまけられた。
しゃがみこんで破片を片付けている時、ふと、あの監視カメラが目に入った。
一昨年の冬、雄介が夢遊病を起こし、夜中にテーブルに衝突して額を割る騒ぎがあった。再発を恐れて家の中に数台のカメラを設置したのだが、その後症状が出ることもなく、私はその存在すら忘れていたのだ。
だが、カメラはずっとそこにあった。
嫌な予感に心臓が早鐘を打つ。震える指で、私はスマホの監視アプリを起動した。
画面が切り替わった瞬間、息が止まった。
リビングで、哲平の上に女が跨っている。乱れた長い髪、上下する身体。彼女が身に纏っているのは、私の淡いブルーのシルクのネグリジェだ。先月、洗濯の時に紛失したと思っていたものが、まさかあんなところに。
「ねえ哲平、すっごく興奮する……」
スマホから漏れる女の声は、悦楽に震えていた。
「奥さんの服を着て、奥さんの男と寝て、奥さんの家の至る所で……」
彼女は身を屈め、哲平の唇を塞ぐ。彼は拒むどころか、さらに強く抱きしめ返した。
続いて哲平は彼女を抱き上げ、掃き出し窓のガラスに押し付ける――そう、希美が言っていたあの場所だ。
こみ上げる吐き気を強引に飲み込み、ログを一番最後まで送る。日時は、私が帰宅する前日の朝七時。
ルームウェア姿の哲平が玄関に立っており、あの女が服を着ているところだった。彼女はバッグから小さな箱を取り出すと、哲平のスーツのポケットに滑り込ませた。
「これ、あげる」
彼女はつま先立ちになり、彼の耳元で囁く。
「遠隔操作できるの。たとえ奥さんが帰ってきても、これなら続きができるでしょ……?」
哲平は笑って彼女の腰を引き寄せ、その唇に軽くキスをした。
画面を一時停止し、拡大する。間違いない。私がサイドテーブルの引き出しで見つけた、あのローターだ。
スマホの画面を消し、私は機械のように荷造りを再開した。スーツケースを引いて寝室を出ると、雄介がソファでゲームに興じていた。彼は顔を上げ、私の荷物を見て瞬きをする。
「ママ、出かけるの?」
「ええ」私は平静を装い、声を絞り出した。
「幸恵さんが遥香ちゃんを連れてV市に遊びに来るから、数日案内することになったの。遥香ちゃんまだ十歳だし、幸恵さん一人じゃ大変でしょう」
雄介は「ふうん」と頷き、疑う様子もなく信じたようだ。
「何日くらい行くの?」
「一週間くらいかな。二人の買い物の付き合いもあるし。パパとお留守番、お願いね。すぐに帰るから」
雄介は「わかった」と短く答え、再びゲーム画面に視線を戻した。
私はスーツケースを引きずり、玄関へと向かう。まだリビングを出きらないうちに、背後から弾んだ声が聞こえた。
「パパ! パパ!」
彼はスマホを掴み、手慣れた様子で電話をかけている。
私は玄関のたたきで立ち止まり、靴を履き直すふりをして耳を澄ませた。
「パパ、ママが幸恵おばさんのとこに行くから、そんな早く帰らなくていいよ!」
雄介の声は少し潜められていたが、内容ははっきりと聞き取れた。
「あ、それと知子さんにありがとうって伝えて! くれたゲーム、超気に入った! ママがいない間に連れてきてよ、お礼言いたいから!」
知子。
ついに、名前が出た。
スーツケースのハンドルを握る指が白く変色するほど、強く力を込める。
「パパは安心して。僕いい子にしてるから! 知子さんと楽しんでね、僕のことなら平気だから!」
甘ったるく、物分かりの良い息子の声。
私の八歳の息子は、電話越しに父親と愛人の仲を取り持つほど熟練していた。あまつさえ、あの女からの貢ぎ物を受け取り、直接礼を言いたいとまで願っている。
私はゆっくりと振り返り、雄介を見た。彼は電話を切り、満面の笑みを私に向けた。
「ママ、パパが気をつけてねって。僕のことは任せてってさ!」
「……そう」
私は頷き、逃げるようにドアを開けて外に出た。
扉を閉めた瞬間、廊下の壁に背中を預け、深く息を吐き出す。骨の髄まで凍りつくような寒気。夫の裏切りこそが最大の苦痛だと思っていた。だが今、理解した。
我が子が父親の不倫の共犯者となり、それを無邪気に楽しんでいる。その事実こそが、本当の地獄なのだと。
*
市内のグランドールホテルに部屋を取り、出国までの半月をここで過ごすことにした。荷物を置くと、幸恵とホテルの一階にあるカフェで落ち合い、新しい仕事の詳細――職務内容、給与、入社時期について最終確認を行った。すべては計画通りだ。
話の終わりに、幸恵が明後日行われる遥香のヴァイオリンコンクールの話を持ち出した。
「良かったら見に来ない? 今回の審査員の一人が、若手ヴァイオリニストの赤松知子なの。遥香の憧れの人でね」
彼女が見せてくれたポスターには、黒いドレスを纏い、ヴァイオリンを抱えた女が写っている。長く艶やかな髪、優雅な微笑み。
監視カメラに映っていたあの女と、瓜二つだった。
カップを持つ手が微かに止まる。私は短く息を吸い、誘いを承諾した。
その夜、哲平からメッセージが届いた。
『律子、雄介から聞いたよ。幸恵さんの付き添いなんだってね。帰ってきたら、ずっと行きたがってたあのフレンチに行こう。久しぶりに二人きりでデートだ❤️』
文末の赤いハートマークを見つめ、私は乾いた笑い声を漏らした。今頃、知子と一緒にいるくせに。甘いメッセージを送りながら、別の女の腰を抱いているのだろうか。それとも、またあの女を自宅に連れ込んでいるのか。
返信はせず、弁護士の吉本徹に連絡を入れた。離婚協議書の作成依頼だ。吉本によれば、有責配偶者である夫に対し、私は共有財産の半分を請求する権利があるという。
遥香のコンクール当日、吉本から離婚協議書が届いた。
私はすぐにバイク便を手配し、その小包を哲平の勤務する病院へと送った。哲平は夢にも思わないだろう。
突然届いたその荷物の中身が、離婚届と――寝室で見つけたあの淫らな玩具だとは。
