第1章
柚木結華にとって、二十六歳の誕生日は特別な意味を持つ日だった。
恋人の九条陽向も、彼女がずっとこの日を心待ちにしてきたことを知っている。だからこそ、妙に神妙な顔をして「先に会場で待ってて」とだけ言い残し、サプライズを用意したのだ。
けれど結華は言わなかった。
――自分も、彼に“驚き”を用意していることを。
水晶灯のぬくもりある光がホールに降り注ぐ。ジュエリー界の名家の令嬢の誕生日とあって、H市の上流は次々と集まり始めていた。
結華は三度目の時計確認をした。開宴まであと三十分。なのに陽向は来ない。電話にも出ない。メッセージも既読にならない。
「結華、焦らないで。今の時間帯は道が混むから」
親友の千堂椿が慰めると、すっと立ち上がる。
「私、ちょっとお手洗い行ってくる。それから一緒に外に出て、先に挨拶回ろ。主役がずっと出てこないとか、さすがにないでしょ」
「うん」
結華は小さく返事をした。
トイレの扉が閉まる音がして、ふとテーブルの上に視線を落とす。自分のスマホの画面がふっと光っていた。
椿に知らせようと手を伸ばした、その瞬間――露骨な嫌悪が顔に出た。
LIMEのグループに、スクショが次々と投下されている。
その直後、下品な一文が流れた。
『このスタイル、ヤバい。喉乾くわ』
それだけでは足りないらしい。すぐさま追撃が来る。
『今夜、あいつ何とかして寝るってさ。終わったら感想シェアしてもらおうぜ』
吐き気が込み上げる。結華が立ち上がろうとした時、瞳孔がきゅっと縮んだ。
新たなスクショ。そこには――恋人のアイコン。
指が勝手に画面をタップし、拡大する。ニックネームを見た瞬間、呼吸が止まった。
九条陽向のメッセージ。
『お前ら、ティッシュ多めに用意しとけ。ヨダレと鼻血拭く用な』
『九条さん、配信頼む』
『九条さん、飽きたら俺らにも回してくれよ』
『黙れ。お前らも手出すんじゃねぇ』
『てか、あいつ誰か知ってて言ってんの?』
『お前らの義姉さんだ。俺が飽きるまで、誰にも触らせねぇ』
結華の指先が冷たく固まる。怒りに任せて打ち込んだ。
「……あんたら、頭おかしいの?」
送信する気にもなれず、スマホをテーブルに叩きつけ、勢いよく扉を開けた。
信じられない。三年間付き合ってきた九条陽向。普段は彼女の言うことに逆らわず、尽くしてくれる男だった。
それが裏では――こんな変態じみた会話をしていたなんて。
男たちに勝手に品定めされ、下卑た妄想の材料にされる。
虫を噛み潰したみたいに不快、なんて生易しい。胃の奥がひっくり返るほど屈辱だった。
過去の出来事が、脳裏でコマ送りになる。
柚木家と九条家の縁談。結華は最初、迷っていた。だが三つ年下の陽向がしつこく迫り、友人たちまで感動してしまったのだ。
「三つ下くらいで何よ。年齢以外は文句ないじゃん」
「今はまだ子犬でも、時間かけて躾ければいいの。あんたにだけ尻尾振る“わんこ”にしちゃえば勝ち」
押し切られる形で、結華は渋々頷いた。
それから三年。陽向は“完璧な恋人”だった。瑕ひとつない――そう思っていた。
結華は会館を飛び出し、街を当てもなく歩いた。行き先なんてどうでもいい。ただ、ここから逃げたかった。
急いで出たせいで上着もない。ふと目に入ったネオンが瞬いた。
――酔えば、少しは忘れられる。
扉を押して店に入る。
耳をつんざく音楽。今の心には、それが妙にしっくり来た。
カウンターに腰を下ろし、いちばん強い酒を頼む。喉を焼く熱が流れ込み、涙が勝手に溢れた。胸の奥がじりじりと疼く。
――なんでクズ男のために泣かなきゃいけない。
――今日は私の誕生日。私がいちばん偉い。
――恋がなくても、仕事は失えない。
柚木家の娘には、世間には伏せられた継承がある。
二十六歳の誕生日に人事を経て初めて、鑑宝の才が開く。
その才を得た者は、玉石に触れるだけで真贋を見抜き、さらに四大至宝と心が通うような感覚すら得られるという。
柚木家の錯綜した人間関係を思い出し、結華の目から濁りが消えていった。
――必要なのは、相手。今夜の相手を選ぶだけ。
彼女の存在はすぐ男たちの目を引き、次々と声をかけられた。だが年が離れすぎていたり、見た目が論外だったり。どれも論外。
薄暗い照明の奥、ソファ席に黒いスーツの男がいた。白いシャツのボタンを二つ外し、背もたれに気怠く凭れている。長い脚を組み、グラスをゆっくり回す姿は――高貴な狼みたいだった。
少し離れた場所で女たちがひそひそ囁き合い、そのうちの一人が背筋を伸ばして男へ近づく。
結華の血が熱くなる。
――あの人だ。
「……偶然ね」
知り合いに会ったみたいな軽い足取りで、結華は男へ歩み寄った。女に肩がぶつかったが構わない。そのまま男の隣に腰を下ろす。
「ねえ、旦那さま。もう怒らないで。帰ろ?」
水のように柔らかな声。大きな瞳で、ぱちりと瞬きをする。
強い酒を初めて一気に飲んだ。酔いが回る前に、男を連れ出さなければ。ひとりで夜明けを迎えるわけにはいかない。
隣の女は、二人の親密さに呆然として、すごすごと退いた。
男は去る背中を一瞥し、そして至近距離の結華へ視線を戻す。感情の読めない声で問う。
「今、俺のこと……何て呼んだ?」
背後に人の気配が消えたのを確認し、結華は無邪気に瞬いた。
「ここ、うるさい。場所、変えて話そ」
酒のせいで身体がふわりと柔らかくなり、無意識に男の肩へもたれ、ゆっくりと胸の中に倒れ込む。
「おい」
男が押し返そうとしても、びくともしない。覗き込むと、目が閉じられていた。寝たのか、演技か。
本当に寝ているなら、このまま置けばすぐ拾われる。
九条獅堂は顔を冷たくし、女を横抱きにしてバーを出た。上階のホテルへ向かう。
スタッフは彼の姿に息を呑み、抱えられた女を見てさらに固まり、慌ててドアを開けた。
部屋へ入る瞬間、腕の中の女の手が、かすかに動いたような気がした。
ドアが閉まる。
ベッドへ放り投げた途端、九条獅堂の襟元が引き寄せられ、身体ごと温かな柔肌に引き倒される。
ほどなく室内は甘く乱れた空気に満ちた。
……
結華は狙い通りにやり遂げた。全身がだるく、ベッドに横たわりながら、どうやってこの男を切るか考えていた時――ドアが叩かれた。
「柚木結華! 開けろ!」
「お前が入ったの、見たって言ってる!」
九条陽向の声。どうして追ってきたの――。
朦朧としていた結華の意識が、一気に研ぎ澄まされる。
まだ問い詰めてもいないのに、先に逆上する気?
