第6章 偽物
来栖琴音は写真を開いて拡大した。画面の上に浮かせた指先が、かすかに震えている。
男の目尻の少し上にある、小さなほくろ。情が深まったとき、彼女がいちばん好きで撫でてきた場所だった。
……見間違いじゃない。
グルメ配信にたまたま映り込んだあの男は、川島治だった。
琴音はソファに崩れ落ちる。胸の奥が、ぎゅうっと潰されて息ができない。
川島治は浮気しただけじゃない。野村さんまで巻き込んで、自分を騙していた。
残業も会議も嘘。コートにコーヒーをこぼしたという話も嘘。かつて自分の部下だった野村さんの言葉まで、全部、嘘。
じゃあ――川島治がこの数年、いや、この数年どころじゃない。ずっと自分に注いできた愛情は?
それも、偽物だったの?
悲しみに沈みきったところへ、伊藤心優から電話が入った。
琴音は気力の抜けた声で、かすれた「……もしもし」とだけ返す。
「琴音。レストランの映像、全部当たった。川島治の正面だけ、撮れてた」
「……うん」
心優は言葉を選ぶように、慎重に続ける。
「起きたことは変えられない。今考えるべきは、これからどうするかだよ」
「どうしたらいいかわからない」琴音の声が震えた。「心優、川島治は私に、本当に優しかったの。愛してないなら……どうしてあそこまで優しくできるのか、わからない」
頭が回らない。
八年だ。八年ものあいだ、愛が演技だったとしたら――そんな男の恐ろしさは、想像したくもない。
「琴音、たぶんあなた、自覚してない」心優は少し強い口調になった。「あなたには、他人が欲しくても手に入らないものが山ほどある。顔も、学歴も、実力も。自分で会社まで作った」
言葉が、胸の奥に突き刺さる。
「川島治はあなたを手に入れて、仕事も、妻子も、名声も、お金も、全部まとめて手に入れたの。『いい夫を捕まえたね』ってあなたを羨む人より、『いい妻を捕まえたね』って川島治を羨む人の方が多いくらい」
琴音の中で、何かが、ぱきっと音を立てて切り替わった。
そうだ。
川島治のすべては、自分が与えたものだ。
裏切ったなら、取り返す。
琴音は唇を引き結び、改めて訊く。
「……女の正面は?」
「撮れてない」心優は言い切り、すぐ畳みかけた。「でも女は重要じゃない。問題は川島治。裏切ったのはあいつ。責めるべき相手、間違えないで」
最近の心優は、妙に理屈っぽい。いつもの彼女らしくない――そう感じたのに、今の琴音には考える余裕がなかった。
「わかった」
通話を切り、琴音はそのまま会社へ向かった。
タクシーで着いたころには、もう退勤間近。
このビルは、琴音が家庭に入る前、川島治へ贈ったプレゼントだった。旧市街の五階建てを丸ごと一棟。見上げるだけで威圧感がある。
ビルの名は守音。
あのとき琴音は笑って言ったのだ。
「これを毎日見たら、必ず私のこと思い出して。ずっと私を愛して。裏切らないでね」
川島治は彼女を抱きしめ、礼を言ったあと、深い目で誓った。
「琴音、君は俺の一生だ。永遠に愛する。絶対に裏切らない」
一生?
……たった数年で?
琴音の口元に、苦い笑みが浮かぶ。約束を破ったのは、川島治自身だ。
ロビーへ足を踏み入れた瞬間、受付の若い女が甲高い声で呼び止めた。
「どちらへ?」
「川島治に会いに来た」
琴音がそう言うと、女は大きな目で琴音を頭の先から足元まで舐めるように見た。貼りつけたような笑顔で、丁寧に言う。
「川島社長にご用件ですね。ご予約はお取りですか?」
「ない」
家庭に入ってから、会社に来た回数なんて指で数えられる。規則が変わっていても知らない。
受付はすぐに表情を崩さず返す。
「申し訳ございません。ご予約なしではお通しできません。川島社長はお忙しいので、ご理解ください」
琴音は、名前と立場を告げた。
だが次の瞬間、受付は露骨に眉を上げた。
「……あなたが? 社長奥様? おばさん、冗談ですよね。社長奥様がそんな格好なわけないじゃないですか」
琴音は家を飛び出してきた。部屋着のまま、すっぴんで、髪も雑に結んだだけ。買い物帰りの主婦そのものだ。
信用するはずがない。
琴音は声を落として言い直す。
「本当に川島治の妻よ。信じないなら、本人に電話して」
受付は一歩も引かない。むしろ鋭く突き返してきた。
「川島社長が、前台の相手なんてしてる暇あると思います? 社長奥様だって言うなら、ご自分でお電話してください。川島社長の声が聞こえたら、信じますから」
――繋がらないと踏んでいる。
琴音は怒りを押し殺し、スマホを取り出して川島治へかけた。
……出ない。
しつこく鳴らしても、無反応のまま切れる。
野村さんにもかける。こちらも同じだった。
受付は、琴音の顔色を見て、どこか勝ち誇ったように笑う。
「おばさん、川島社長に会いたいなら、もう少しマシな理由を考えた方がいいですよ。うちの社長奥様に知られたら、あなた、一生うちと取引できなくなるかもしれませんし」
――社長奥様?
琴音の身体が、ぐらりと揺れた。
社長奥様は自分のはずだ。なのに別の社長奥様?
頭の中が、ぶわっと白くなる。
琴音は歯を食いしばって訊いた。
「あなたが言う社長奥様って……川島治の奥さんのこと?」
受付は呆れたように肩をすくめ、嘲るように言い放つ。
「当たり前じゃないですか。社長奥様は社長奥様です。まさか……あなた? 笑える。誰でも名乗れると思ってるんですか」
そのやり取りに気づいたのか、奥のオフィスから社員たちがぞろぞろと顔を出し、遠巻きにこちらを見ている。視線が刺さって、皮膚が痛い。
琴音は震える声で命令した。
「今すぐ川島治に電話して。会わせて」
「できません。ご予約はお取りできますが、お会いになるかどうかは川島社長次第です。ですから、こちらでお待ちください」
……自分の会社で。夫に会うのに、待てと言われる。
「急用なの。今すぐ、今すぐ会うの」
受付の冷えた態度に、琴音の堪忍袋が切れた。奥へ踏み込もうとする。
「ちょっと! 警備! 不審者です! 誰か来て!」
次の瞬間、琴音は引きずられるように外へ押し出された。通行人が振り向き、ひそひそと指をさす。
ガラスに映る自分の姿が、惨めで、滑稽で。
このとき初めて、はっきり実感した。
会社は、もう琴音のものじゃない。
怒りで全身が震えていると、野村さんから着信が入った。
「琴音さん。川島社長は会議中です。お電話、何かご用件ですか?」
「社長奥様は誰なの」
そう問い詰めたところで、野村さんは嘘で守るだけだ。川島治側の人間なのだから。
琴音は冷たく言った。
「……何でもない」
通話を切り、息を整える。
受付が偽物を社長奥様だと信じるのは、川島治がその女を堂々と会社へ連れてきたからに決まっている。
琴音はビルの前で立ち尽くし、「守音」の文字を見上げた。目の奥がつんと熱くなる。
「川島治……私が座らせてやった社長の椅子で、どうして他の女を社長奥様にできるの」
