第1章
林田柊が飛行機を降りたとき、A市はバケツをひっくり返したような土砂降りだった。
今日は息子――北斗の六歳の誕生日。
この日のために、彼女は二週間前から昼も夜もなく案件を詰め、どうにか戻ってきたのだ。
雨で路面は滑り、高架はひどい渋滞。林田柊は胸が焼けるように焦って、何度も時間を確かめた。
そのとき――運転手が急ブレーキを踏んだ。
衝撃で額が前の座席にぶつかり、視界がぐらりと暗くなる。
痛みをかまう余裕などない。真っ先に抱え直したのは、腕の中のケーキ箱だった。
ケーキは一か月前にB国で予約したもの。北斗がいちばん好きな店で、彼女はわざわざ人に頼み、三日も並ばせてようやく手に入れた。
「お嬢さん、血が!」運転手が振り返って叫ぶ。
額に触れると、手のひらが真っ赤になった。
「大丈夫です。急いでいて……走れますか?」
「このままじゃ警察――」
「じゃあ、私が先に行きます」
林田柊は札束を置き、ドアを押し開けた。ケーキを抱えて雨の中へ飛び出す。
ハイヒールでは走れない。靴を脱ぎ捨て、裸足で駆けた。雨水と血が混じって目に流れ込み、滲む。
それでもケーキ箱だけは胸に押しつけ、雨粒ひとつ当てなかった。
マンションに着いたときには、もう十二時近い。
息を切らしながらエレベーターのボタンを押し、数字が上がっていくのを見つめる。心臓がうるさいほど鳴っていた。
北斗は喜んでくれるだろうか。
夫の白鳥空弥も、驚くだろうか。
あえて便の変更を知らせなかったのは、二人の「びっくりした顔」が見たかったから。
扉が開く。林田柊は足早に玄関へ向かった――そのとき、中から弾むような歌が聞こえた。
「♪ハッピーバースデー トゥー ユー……」
林田柊の手が止まる。
ドア越しに、息子のけらけら笑う声。
「祈おばさん、早くお願いごとして! あ、違う違う、お願いは僕! 僕がしてから、祈おばさんがロウソク吹いてね!」
「うん、北斗がお願いして。祈おばさんが吹いてあげる」
その声は、林田柊がよく知っている。
相馬祈。
「北斗、祈おばさんにばっかり頼るなよ」
白鳥空弥の声には笑みが混じっていた。林田柊が一度も聞いたことのない、甘く柔らかな温度。
胸の奥で燃えていたものが、少しずつ冷えていく。
震える手で鍵を回し、ドアを開けた。
リビングの灯りは消えていて、ケーキのロウソクだけが揺れている。
橙色の光が、寄り添う三つの影を映した。
まるで幸せな家族――三人が顔を寄せ、同じロウソクへ息を吹きかける。
北斗は両手を合わせ、目をぎゅっと閉じている。林田柊が見たこともないほど嬉しそうな顔で。
三人でロウソクを吹き消した。
パッ、と灯りがつく。
最初に気づいたのは相馬祈だった。目を見開き、固まる。
「柊さん?」
白鳥空弥が顔を上げる。明らかに驚いた表情。
「……なんで帰ってきた? 来週だって言ってたろ」
林田柊は、家族写真みたいに並ぶ三人を見つめたまま、口を開く。
言葉が出ない。喉に何かが詰まっている。
しばらくして、かすれた声で言った。
「……便を変えたの。北斗に、サプライズしたくて」
白鳥空弥は眉を寄せただけで、何も言わなかった。
白鳥北斗は林田柊を見るなり、顔いっぱいの笑みが、少しずつ消えていく。
相馬祈のほうへ身を寄せ、警戒する目で林田柊を見た。
相馬祈が立ち上がり、笑う。
「柊さんが帰ってきたなら、私はもう帰るね」
そう言って白鳥北斗の頭を撫で、名残惜しそうに囁く。
「北斗、祈おばさん、明日また来るから」
けれど白鳥北斗は相馬祈の手をぐっと掴んだ。
「祈おばさん、行かないで!」
そして林田柊を睨みつける。
「なんで帰ってきたの? 帰ってこなかったら、僕とパパと祈おばさんで楽しかったのに! ママが帰ってきたから、祈おばさん帰っちゃうじゃん!」
林田柊の顔から血の気が引く。唇が小刻みに震えた。
十月十日、お腹を痛めて産んだ息子が――こんな言葉を吐くなんて。
「北斗、ママにそんな言い方するな」
白鳥空弥が低く叱る。しかし、責める色は薄かった。
白鳥北斗は聞かない。相馬祈の手をさらに強く握り、嫌悪を滲ませる。
「大嫌い! なんで祈おばさんが僕のママじゃないの? 祈おばさんがママだったらよかったのに!」
真正面から殴られたみたいに、林田柊はふらついた。
ケーキ箱を抱える指に力が入り、白くなる。
――北斗は、彼女が育ててきた。早産で体が弱く、しょっちゅう熱を出した。
白鳥空弥の会社が立ち上げたばかりの頃、林田柊は襁褓の息子を抱え、家と病院を行き来した。夜明けまでそばにいた夜も数え切れない。
三歳を過ぎ、ようやく体が丈夫になり、白鳥空弥の会社も軌道に乗った。
そして会社のために林田柊は出張を増やし、海外案件の交渉も担った。気づけば北斗は父親に懐き、彼女とは遠くなっていった。
相馬祈が屈み、やさしい声で宥める。
「北斗、そんなこと言っちゃだめ。ママは北斗のこと大好きだよ。今日が誕生日だから、わざわざ帰ってきてくれたんだもん。そんな言葉で傷つけたらだめ」
相馬祈は林田柊の手元――ケーキ箱を見て、笑って言った。
「柊さんもケーキ持ってきたの? じゃあ、もう一回ロウソク吹く? 北斗、お願いごともう一つしてもいいよ」
白鳥北斗は不満そうだったが、父と祈おばさんが言うなら、と渋々うなずく。
相馬祈が林田柊からケーキ箱を受け取り、開けた。
――ケーキは崩れていた。道中の揺れと、さっきの事故。繊細なクリームの花は潰れ、チョコの飾りは折れて、ぐにゃりと沈んでいる。
「……ぶさいく」
北斗が口を尖らせ、小さくつぶやく。
胸の奥が、また痛む。
相馬祈はにこやかに取り繕った。
「ぶさいくじゃないよ。ママが買ってきたケーキだもん、絶対おいしいよ」
小さなフォークでひと口分をすくい、自分の口へ。
次の瞬間――相馬祈の顔色が、すっと白くなった。
「どうした?」白鳥空弥が異変に気づく。
相馬祈は答えられず、口元を押さえたまま呼吸が荒くなっていく。
白鳥空弥は相馬祈の手からケーキを奪い取り、箱のラベルを見る。
そこには小さく印字があった。――マンゴームース。
白鳥空弥の顔が、一気に冷えた。
刃のような目で林田柊を射抜く。
「祈がマンゴーアレルギーだって知らないのか?」
林田柊は唇を開く。
「……知らなかった」
「知らなかった?」白鳥空弥が嘲るように笑う。
「うちで何回飯食ったと思ってる。今さら知らないって?」
「本当に知らない……」
相馬祈が家に来ていたとき、林田柊はたいてい不在だった。知りようがない。
白鳥空弥の目には失望が満ちていた。
「祈が嫌いでも、こんな卑劣な手で害するなんて最低だ」
「パパ、祈おばさんどうしたの?」
白鳥北斗も泣き出し、相馬祈の手を離さない。
相馬祈は顔が赤くなり、苦しげに言った。
「大丈夫……空弥、柊さんを責めないで……ほんとに忘れてただけかも……」
「喋るな」
白鳥空弥は相馬祈を抱き上げ、冷たい目で林田柊を見下ろした。
「祈に何かあったら……絶対に許さない」
林田柊の心が、真っ逆さまに落ちていく。
マンゴーアレルギーなら、どうして相馬祈は、あのひと口を……。
ぐちゃぐちゃの思考を切り裂くように、北斗が突進してきた。
小さな体で、全力の力。林田柊の腹を突き飛ばす。
「悪い人! 祈おばさん殺そうとした! 大嫌い!」
林田柊はよろけて後退し、靴箱に背中をぶつけた。
額の傷口が裂け、血が頬を伝い、白いシャツに落ちる。
白鳥空弥は一度も振り返らない。相馬祈を抱えて足早に出て行った。
北斗も後を追い、途中で振り返って林田柊を睨みつける。
「もう二度と、ママなんか見たくない!」
バタン、とドアが閉まった。
静けさだけが残る。
林田柊は床に座り込み、閉ざされた扉を見つめた。
血がぽた、ぽたと手の甲に落ちても、感じない。
額の痛みなど、胸の痛みに比べれば――万分の一。
やがて立ち上がり、がらんとしたリビングを見渡す。
壁には北斗の一歳の写真。彼女が北斗を抱き、背後に白鳥空弥が立つ――唯一の家族写真。
床には開きっぱなしのケーキ箱。醜く崩れたケーキが、傾いている。
林田柊は蓋を閉じ、そのままゴミ箱に捨てた。
洗面所へ行き、傷口を洗う。
鏡の中の自分はひどくみすぼらしい。血が顔の半分を汚し、肌は紙みたいに白い。
――これが、私?
十八歳で白鳥空弥を好きになり、八年追いかけ、六年妻をやって、十四年愛した。
馬鹿みたいな女。
もう終わりにしよう。
目の奥の揺れが消え、芯が固まっていく。
林田柊はスマホを取り出し、番号を押した。
「周防先生ですか。私、林田柊です」
声は驚くほど平らだった。
「離婚協議書を作ってください。お願いします」
