第2章
林田柊が洗面所から出てくるころには、額の傷はひとまず手当てが済んでいた。
顔色はまだ青白い。それでも表情だけは、妙なほど落ち着いている。
額の擦り傷なんて、ただの表面だ。胸の奥に開いた裂け目のほうが、ずっと深くて痛い。しかも――止血のしようがない。
彼女は二階へ上がり、主寝室に入った。荷物をまとめるつもりだった。
ベッドサイドのナイトテーブルには、彼女と白鳥空弥の結婚写真がまだ飾られている。
写真の中の自分は、眩しいくらいに笑っていた。瞳の奥に星でも隠しているみたいに、きらきらして。
あの頃の彼女は信じていた。嫁いでしまえば、たとえ彼の心に自分の席がなくても、全身全霊で尽くし続ければ、いつか――欲しい愛が手に入るのだと。
今思えば、どれほど幼かったのか。
自嘲気味に口元をゆがめ、視線を写真から引き剥がす。林田柊はクローゼットを開けた。
自分の服は少ない。結婚してからは出張ばかりで、クローゼットの半分が空いたままだ。
反対側に並ぶ白鳥空弥の服は、きっちり整えられ、皺ひとつなく吊るされている。アイロンの線まで潔いほど真っ直ぐだ。
彼の服のほとんどは林田柊が買ったものだった。海外出張のたび、彼に似合いそうだと思ったら値段も見ずに手に取った。
出張前には、着る順番まで考えてコーディネートし、彼が余計な手間をかけずに済むように揃えてきた。
喉の奥に込み上げる酸っぱさを押し殺し、着替えを数枚。洗面用具。専門書を数冊。小ぶりなスーツケースに詰めていく。
引き出しの奥にはカードが一枚入っていた。白鳥空弥が毎月、生活費として振り込ませていた口座のもの。
六年間――一度も使っていない。
彼女には仕事も収入もある。白鳥空弥ほどではなくても、自分が暮らす分には十分だった。
カードをナイトテーブルの上に置く。彼が戻ってきたら、すぐ目に入る場所へ。
そのとき、スマホが短く鳴った。メールだ。
周防先生が離婚協議書の電子データを送ってきたのだ。
内容を確認し、問題なし。すぐに2部印刷し、署名を入れる。
明日これを会社へ持って行き、秘書経由で白鳥空弥に渡せばいい。そうしたら――これから先、二人はもう無関係になる。
きっぱりと。濁りなく。未練も、引き伸ばしもない。
それは、彼がこの六年ずっと自分に向けてきた態度と同じだった。
林田柊はスーツケースを引いて階段を下りる。
――今度こそ、振り返らない。
屋敷を出た彼女は、そのまま車を走らせ、自分名義のマンションへ向かった。
2LDK。数年前に購入したものだ。会社からも近い。残業が遅くなったときに泊まる程度だったが、定期的に家政婦を入れているから、埃っぽさもない。
最低限整えた頃には、もう午前2時を回っていた。
ベッドに横になっても、身体は重いのに眠れない。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。北斗が突き飛ばしてきたときの、あの嫌悪の視線。白鳥空弥が相馬祈を抱き上げ、振り返りもせず去っていった背中。
寝返りを打ち、枕に顔を埋める。
――人は、本当に心が灰になったとき、涙すら出ない。
翌朝7時。林田柊は起きた。
ほとんど眠っていない目は血走っていたのに、目つきだけはむしろ静かだった。
身支度を済ませ、白鳥グループのビルへ向かう。
会社に着いたのは8時半を少し過ぎた頃。パソコンを立ち上げ、辞表を書く。
『一身上の都合により退職を願い出ます。長年のご指導に感謝いたします』
署名し、印刷。
離婚協議書と辞表をファイルにまとめ、彼女はまっすぐ最上階へ向かった。
直接渡して終わらせたかった。これ以上、私生活を会社に持ち込む理由もない。
だが、エレベーターを降りた途端、秘書の川崎に止められた。
「柊さん? どうして上に……?」
川崎は知っている。林田柊が白鳥空弥の妻であることも、そして白鳥空弥が彼女の来訪を嫌うことも。
「白鳥社長に用があるんです。書類を渡したくて」
「社長は不在です。いったんお戻りいただけますか? お戻りになったら、私から――」
柔らかい言い方の追い返し。
林田柊は、その場から動かなかった。
このビルの誰もが知っている。
社長は奥様を見ると機嫌が悪くなる。だから、上げるな――暗黙のルール。
昔の林田柊はそれが分からず、何度も何度もぶつかった。傷ついても、「忙しいだけ」と自分に言い聞かせた。
今なら分かる。自分がどれほど安く、自分を差し出していたか。
ファイルを握りしめた、そのとき。
背後から、聞き慣れた声がした。
「林田柊?」
振り返ると、人事部の周防が別のエレベーターから出てきたところだった。
「周防さん」
周防は林田柊と川崎を見比べ、すぐ状況を察したらしい。小さく息をつき、彼女を廊下の端へ促す。
「社長に会いに来たの?」
「はい」
「待たないほうがいい」周防は声をさらに落とした。「相馬祈が昨夜、病院に運ばれてね。社長、ずっと付き添ってる」
同情と諦めが混じる口ぶり。
この会社に長くいれば、誰だって知る。相馬祈が白鳥空弥の“高嶺の花”だということを。
当時、白鳥家は相馬祈との結婚に反対し、白鳥空弥は林田柊と結婚させられた。
白鳥空弥は長年、その鬱憤を林田柊にぶつけ続けてきた。
相馬祈は「友人」という立場のまま彼のそばに居座り、名分のない距離で、正妻よりも女主人らしく振る舞ってきた。
周防が林田柊の顔色をうかがう。
「……大丈夫?」
「大丈夫です」
林田柊は淡々とファイルを差し出した。
「周防さん、これ、社長に渡していただけますか」
周防は受け取り、表紙に目を落とす。『辞表』の文字で指が止まった。複雑そうな視線が林田柊に向く。
「……どうして急に。ちゃんとした理由があるの?」
「少し休みたいだけです」林田柊は静かに言った。
周防は何か言いかけて、結局飲み込む。
この会社で十年以上。社長と林田柊の事情を知らない者はいない。
――でも、今日の林田柊は明らかに違った。
以前の彼女は、どれだけ冷たくされても「平気です、待てます」と目に光を残していた。暗くなっても、消えはしなかった光。
今は、その光が完全に消えている。
「分かったわ。渡しておく」
「ありがとうございます」
林田柊は頭を下げ、踵を返した。
歩き出して数歩。背後で小声が交わされる。
「また社長に会いに来たの?」
「川崎くんに止められてたよ」
「ほんと、まだ諦めないんだね。社長の心には相馬さんしかいないのに」
「しょっちゅう上に押しかけてさ。そりゃ嫌がるわ」
声は小さい。けれど廊下は静かで、一語一句が耳に刺さるほど届いた。
以前なら、胸が締めつけられた。悔しくて、弁解したくて、必死に自分を正当化したはずだ。
――でも、もうどうでもいい。
ビルを出た途端、行き先がふっと消えた。
しばらく街角に立ち尽くし、林田柊はスマホを取り出して番号を押す。
呼び出し音が三回。
年老いてなお芯のある声が応じた。
「もしもし」
「先生……私です。林田柊です」
喉が詰まり、言葉がゆっくりになる。
「柊くん?」曾我教授の声が驚きに跳ねた。「どうした。最近どうしてた?」
林田柊は短く沈黙し、かすれた声で尋ねる。
「先生。以前おっしゃっていたチップ技術の研究プロジェクト……今も人手は足りていますか」
