第6章 幻覚か

白鳥空弥の瞳が、ぎゅっと細くなる。

林田柊――?

エンジニア……?

一瞬、自分の目がおかしくなったのかと思った。

どうして彼女がここにいる。しかも、何かのプロジェクトの中核技術者だと?

林田柊は本来、家にいるべきだった。あるいは、彼の手の届かないどこかの片隅で、彼の機嫌が直るのを待って――そして今まで何度もそうしてきたみたいに、自分から謝って、折れて、戻ってくるはずだったのに。

けれど林田柊は、彼の目に渦巻く嵐など見えていないかのように、ただ静かに主賓席の曾我教授へ会釈した。

それから、用意されていた席へと落ち着いた所作で腰を下ろす。

位置は――白鳥空弥の斜め向かい。

「よし、全員揃ったな。始めよう」

曾我教授が喉を整え、視線で会議室を一巡させる。

「今回、我々は林田グループと共同で『アカツキ』チップを開発する。コア技術の突破は我々のチームが担当し、林田グループが資金提供と、その後の産業面の支援を受け持つ」

少し間を置き、曾我教授は林田柊へ視線を移す。そこには励ましと、隠しきれない期待があった。

「では、プロジェクトのコアエンジニアである林田柊くんから、初期技術案の説明をしてもらおう」

会議室の視線が、再び林田柊へ集まる。

白鳥空弥もまた、彼女を見据えたまま動かなかった。吟味するように、探るように。

記憶の中の林田柊は、いつだって従順で、やわらかくて、台所と子どもの周りだけを回っていた。彼がひと言褒めれば一日中嬉しそうで、ふとした冷たさには簡単に傷ついていた。

――なのに。

いま目の前にいる女は、違う。

自信。余裕。プロとしての輪郭。

林田柊は投影を立ち上げ、話し始めた。論理の運びは明快で、数値は的確、構想は先端を突いている。淡々とした口調なのに、言葉の端々が鋭く、そして眩しい。

光っている、と白鳥空弥は思った。

知らない光だ。目に刺さるほどに。

白鳥空弥はふいに思い出す。昔の彼女も、こんなふうに目を輝かせていた。だが、彼とこの家のために――少しずつ、刃をしまい、光を隠した。

その落差が、胸の奥をざらつかせる。

そのとき、隣から甘い声が滑り込んできた。

「柊さんって本当にすごいですね。ここ何年も仕事から離れてたのに、こんなに力が落ちないなんて」

白鳥空弥が横を見ると、相馬祈が壇上の林田柊をうっとり見上げていた。崇拝の顔。だが、その瞳の底には――薄い嫉妬が、うまく隠されている。

相馬祈は伝手を使い、林田グループ側の随行者として今回の会議に同席していた。プロジェクトの中核が林田柊だと知ったうえで、わざわざ来たのだ。

白鳥空弥の視線が、あの女に奪われるのが嫌で。

本来、白鳥空弥はこの機会で相馬祈を業界に印象づけ、将来の足場にさせるつもりだった。

まさか、プロジェクトの中核が林田柊だとは思いもしなかったが。

――一時間後。

林田柊の報告が終わると、会議室にぱっと拍手が広がった。

曾我教授が先頭に立って立ち上がり、満足げに頷く。

「素晴らしい。実に良かった! 林田くん、やはり先生の期待を裏切らないな」

「ありがとうございます、先生」

林田柊は控えめに笑い、ノートPCと資料を手早くまとめ始めた。

会議が終わり、人がぞろぞろと散っていく。

相馬祈はすぐに立ち上がり、自然な仕草で白鳥空弥の腕に絡みついた。親しげに、甘えるように。

声量は大きくない。だが、まだ遠くへ行っていない林田柊の耳に届く、ちょうどいい高さ。

「空弥、柊さんの説明ほんとにすごかった。私、聞き入っちゃった。プロジェクト始動のお祝いに、お昼一緒にご飯行こう?」

言いながら、相馬祈は林田柊へ挑むような視線を投げる。勝ち誇って、所有を誇示する視線。

いつもの手口だ。

これまでなら、林田柊は顔色を失い、逃げるように去った。

けれど今回は違った。

林田柊は彼らに、余計な視線をひとつも寄越さない。

荷物を整えると、真っ直ぐ曾我教授のもとへ行き、さっきの報告に関する技術的な細部を小声で確認し始めた。まるで周囲すべてが無関係だと言わんばかりに。

白鳥空弥の目は、林田柊の背中に貼りついたまま離れない。

――見もしない。

入室してから今まで、まるまる一時間以上。

彼女は白鳥空弥を、空気のように扱った。

完全に無視される、その感覚が。

白鳥空弥の胸の奥に、理由の分からない苛立ちが火花を散らした。

追いかけられるのに慣れていた。彼女の視線がいつだって自分の周りを回っているのが当たり前だった。なのに、見られなくなった途端、全身がちぐはぐに落ち着かない。

「空弥?」

相馬祈が彼の意識の逸れを察し、腕に絡めた手にきゅっと力を込める。声音には露骨な甘えが混じった。

白鳥空弥は我に返り、相馬祈を一瞥し、それから曾我教授とともに会議室を出ていく林田柊の背へ目をやる。

瞳が、沈む。

「行くぞ」

胸の不快感を押し殺し、短く言った。

相馬祈は、ようやく自分へ戻った注意に満足したのか、得意げに口元を緩める。さらに体を寄せ、二人でエレベーターへ向かった。

だが。

相馬祈がふと振り返り、林田柊が消えた方向を見た瞬間――その眼底に渦巻く嫉妬と怨毒は、もう隠しようがなかった。

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