第2章
病室のモニターが刻む規則正しい電子音が、ゆっくりと私を意識の底から引き上げていった。
無理やりまぶたを開く。額の奥で鋭い痛みが脈打ち、頭には分厚い包帯がぐるぐると巻かれている。
――生きてる。
「よかった……本当に、よかった! 誠、この子、目を覚ましたわ!」
安堵で温まった優しい声が、すぐそばで弾んだ。
首をぎこちなく回すと、私を助けてくれた中年の夫婦が見えた。二人ともひどく疲れ切った顔をしていて、何時間もこの病室で付き添っていたのが一目で分かる。
私は反射的に身を縮めた。
「ごめんなさい……頭の血で、車の革のシートを汚しちゃったはずです。アルバイトが見つかったら、クリーニング代、ちゃんと返します……」
洋子さんの目がみるみる赤くなる。彼女は手を伸ばし、包帯の端に沿ってそっと私の髪を撫でた。
「まあ、そんな馬鹿なこと言わないで。フォードよ? 仮に全部ダメになったとしても、あなたの命より価値があるわけないじゃない。あなたはひどい目に遭った、いい子なの。今は何も心配しなくていいの。横になって、休みなさい」
――いい子?
その言葉に、頭がふわりと白くなる。
私はアスペルガーだった。変わっていて、無口で、不器用で。バレエを踊る繊細で美しい姉と比べれば、私はただの醜いアヒルで、誰も近寄りたがらない存在だった。
十二歳の誕生日、私の願いはケーキが食べたい、それだけだった。由美は私を指さして叫んだ。
「来週、お姉ちゃんには全国ジュニアバレエコンクールがあるの! この家には出費だって十分あるのに、よくそんな無茶なことが言えるわね! あんたは自分のことしか考えない、冷血な獣よ!」
それなのに、たった三か月後の莉奈の誕生日パーティーでは、翼がクレジットカードを限度額いっぱいまで使って、最新の限定版シャネルのハンドバッグを買い与えていた。
別のとき、莉奈が劇場でのリハーサル中に足首をひねった。私の反応が遅く、すぐに駆け寄って支えられなかったせいで、由美は皆の前で私の頬を思いきり叩いた。
「この醜くて愚かなゴミ! せめてお姉ちゃんの役に立つくらいできるでしょ、それすらまともにできないの!? 家族のことなんてどうでもいいんだね! 神様がどうしてこんなゴミを私の家に放り込んだのか、心底理解できない!」
ゴミ。
私は、そういうものとして扱われるはずの存在だった。
「ぬるいお水を飲みなさい、ね。唇が切れてるわ」洋子さんがコップを私の口元へ運ぶ。
私は大人しく半分ほど飲んだ。落ち着いたのを確かめると、彼女は窓際の椅子に戻り、びっしりと計算が書き込まれた紙束を手に取った。二分もしないうちに眉間に深い皺が寄り、苛立たしげにペン先で紙をコツコツ叩き始める。
私は毛布をはねのけ、ベッドから降りて洗面所へ向かった。洋子さんの横を通り過ぎるとき、彼女の手元の紙にちらりと視線を落とす。
そこにあったのは、途方もなく複雑な非線形偏微分方程式の連立だった。絡み合う変数と位相的次元が、模様も法則も見えない混沌として紙面を埋め尽くしている。
洋子さんは、越えられない特異点に行き詰まっているのが明らかだった。
けれど私の目には、その混沌に見える記号と数字が、すでに勝手に並び替わり始めていた。
「高次元の位相空間は、ポアンカレ写像で落として……」私は足を止めた。
「それからフーリエ変換の境界条件を入れれば、特異点はすぐに相殺されます」
洋子さんがびくりと顔を上げ、信じられないものを見るように私を見つめた。
私は紙の三行目を指す。
「ここのパラメータ設定に論理の穴があります。答えは一つ上の行の変数の中に、もう隠れてる。二つの行列を入れ替えれば、一気に開きます」
洋子さんは二秒ほど固まり、それから半信半疑でうつむき、私の言った手順を追い始めた。余白に猛スピードで書き殴っていく。
三分後――
洋子さんが息を呑んだ。ペンが指から滑り落ち、床にカランと音を立てた。
誠さんが驚いて近寄る。
「洋子、どうした?」
「……信じられない……」洋子さんは勢いよく立ち上がり、燃えるような目で私を見据えた。
「栞、どうしてナヴィエ・ストークス方程式の変種を知ってるの? そのレベルの計算を、頭の中でどうやって……?」
「計算してません」私はゆっくり瞬きをした。
「ただ……構造が見えただけです。答えが、そこにあった。分かりやすかっただけ」
「天才……アスペルガーに伴うことのある極端な集中力と、数への直観……」洋子さんは私の両手をぎゅっと掴み、興奮で声を震わせた。
「誠、私たちは、とんでもない天才を見つけたわ。一世代に一人いるかどうかよ!」
彼女の目は、私を見るたびにきらきらと光を増していく。
「栞、改めて自己紹介させて。私は東都高等学術研究所の数学教授よ。私たちは、人類全体に関わるかもしれない世界級の数学的難問に取り組んでいる。あなたには、誰もが一生羨むほどの稀有な才能がある。私の研究チームに参加してくれない?――そして、学界全体をあなたで狂わせてみない?」
