第3章
「ごめんなさい……受けられません」私は俯いた。
「家を出たくないんです。研究プロジェクトに行って働いたりしたら、ママが怒るから」
誠は小さく息を吐いた。
洋子の目に、痛みがちらりとよぎった。彼女はそっと私の髪を撫でる。
鼻の奥がつんとした。
――これが、母親の触れ方ってものなのだ。
私は慌てて古い携帯を取り出した。画面は蜘蛛の巣みたいにひびだらけのまま。電源ボタンを押す。
ぶるぶるっと荒々しく震えたあと、画面が点いて、着信履歴がずらりと並んだ。未着信が何十件、メッセージも十数件。
『どこに逃げやがった? 今すぐ電話に出ろ!』
『十分以内に戻ってこなかったら、二度と家に入れると思うな!』
心臓がどくん、と跳ねた。
「ほら! 言ったでしょう、あの人たち私のこと好きなんです!」私は割れた画面を洋子の前に突き出した。
「事故のあと、全部がぐちゃぐちゃで……何が起きたのか分からなかったんです。今は私がいないって気づいて、必死に探してる! だから、今すぐ帰らなきゃ!」
洋子の目に浮かぶ憐れみが、耐えられないほど痛かった。誠は怒りで拳を握りしめる。
「ねえ……家で、ひどいことをされ――」
「違う! 優しいんです!」私は慌てて遮った。苦労して手に入れたこの「愛」が、正体を暴かれるのが怖かった。
それから三十分後。
病院の外に黒い大型車が横づけされた。運転していたのは、誠と洋子の息子――蓮だった。
両親から話を聞いたあと、彼は私に冷たい視線を一度だけ投げた。
やがて車は、私の家の別荘の前で止まった。
降りる前から、家の中では腹に響く音楽と、客たちの笑い声や歓声が鳴り響いていた。
私は凍りついた。
どれほど叩いたか分からない。ようやく玄関の扉が乱暴に引き開けられる。
翼が立っていた。シャンパンのグラスを手に、目を吊り上げ、うんざりしたように目を回す。
「ったく、どこほっつき歩いてたんだよ、そのザマで。死んでないならさっさと入れ!」翼は吐き捨てた。
「今日が莉奈の十八歳の誕生日パーティーだって分かってんのか? 妹は家族みんな揃うの楽しみにしてたのに、お前が消えて、わざと台無しにしやがった! 信じられないくらい自己中だな!」
氷水に突き落とされたみたいだった。私はぼんやりと彼を見つめる。
「誕生日パーティー……でも、私、交通事故に遭ったの。道端で血が止まらなくて、死ぬところで……」
「黙れ」翼が吠えた。
「莉奈は膝を痛めたんだぞ。このパーティーをまとめて、落ち着かせるのにどれだけ手間がかかったと思ってんだ?」
彼の視線が、汚れた私の服をなぞり、露骨な嫌悪がにじむ。
「見ろよ、お前。汚ねえ。客の前で恥さらす気か? 裏庭に回って横の扉から入れ。そんな気持ち悪い格好、誰にも見せたくない」
バタン!
扉が、私の顔の前で叩きつけられた。
けれど、自分の部屋のドアを押し開けた瞬間、私はその場で完全に動けなくなった。
ベッドの上には使い捨ての紙皿が散らばり、あちこちにケーキのクリームがべっとりと擦りつけられている。
三年かけて必死に貯めたお金で、やっと中古で買ったあのドレスは、カーペットに投げ捨てられ、泥のついた靴跡で踏み荒らされていた。
――これが、私を心配しているってこと。
――これが、家族が一緒ってこと。
ドンドンドン!
外から、乱暴に私の部屋のドアが叩かれる。
「栞、このブタ! 着替えるのにどんだけかかってんだよ! さっさと出てきて外のゴミ片づけろ!」
ついに、涙がこぼれ落ちた。
胸の奥に残っていた最後の希望が、すっかり消えた。
「泣いて海でも作るつもりなら、よそでやったほうがいい」背後から男の声がした。
振り向くと、いつの間にか洋子の家族が中までついてきていた。
蓮が私の横をすたすたと通り過ぎ、まだ向こう側で叩き続けている由美に向かって、ドアを蹴破るように脚を上げる。
「蓮!」誠が息子の腕を掴んだ。
「やめろ。これは俺たちが代わりに決められることじゃない。本人が決めるんだ」
顎を強く引き結び、蓮は無理やり足を止めた。
洋子が駆け寄り、震える私の体をぎゅっと抱きしめる。
彼女は私の頬の涙を拭い、その目をまっすぐに据えて、ひとつひとつ噛みしめるように問いかけた。
「栞――今度こそ、私の研究チームに入る?」
