第2章

 和栄は私の穏やかな表情を見て、一瞬だけ狼狽したものの、すぐに納得したような顔つきになった。

「もっと早くこうすべきだったんだよ、佳代子」

 彼は安堵の息を漏らし、私の従順さを褒めるかのように肩に手を置いた。

「僕がこの数日、どれだけプレッシャーを感じていたか分かるかい? 会社は合併の時期だし、家ではみどりのことがあるし……。これでやっと、君も妻らしく、姉らしくなった」

 私たちはリビングへと足を踏み入れた。本来ならがらんとしているはずのソファには、今、人がぎっしりと座っている。

 私の両親、林太郎と春美がそこに鎮座していた。まるで被告人を断罪するのを待ち構える陪審員のようだ。

 みどりは母の懐に寄りかかり、顔面蒼白で、そのいつもの優しげな瞳を申し訳なさそうに私に向けている。

「いつまで駄々をこねるつもり?」

 口火を切ったのは母の春美だった。その口調は失望に満ちている。

「和栄さんから聞いたわよ。たかが鉢植えごときで家出ですって? 佳代子、私たちがあんたを連れ戻してからもう何年も経つのに、その貧民窟で染みついた卑しさは少しも抜けないのね」

 父の林太郎が眼鏡を外し、ゆっくりとレンズを拭いた。その声は落ち着いているが、それゆえに鋭く突き刺さる。

「姉さんの体の状態は分かっているだろう。あの善良で優しい姉さんの爪の垢でも煎じて飲んでいれば、この家もこうまで安らぎのない場所にはならなかったはずだ」

 以前の私なら、とっくに反論していただろう。

 あれは私が丹精込めて育てた花だったのだと。私だって疲れているのだと。なぜ私の感情はいつも後回しにされるのかと。

 だが今は、そんな言葉を吐き出す気力さえ湧いてこない。

「ごめんなさい」

 私は淡々と言った。

 その一言で、リビングは一瞬の静寂に包まれた。

 彼らが用意していた長々しい説教は、まるで暖簾に腕押しといった具合に空を切ったのだ。

「自分の非を認めるのなら」

 父は咳払いを一つして、話題を本来の目的に向けた。

「骨髄提供の件も、もう納得できているな」

「医者が言ってたわ、今あんただけがフルマッチなのだと」

 すかさず母が畳みかける。

「たかが骨髄よ。少し抜いたってまた生えてくるんだから、体には何の影響もないわ。妊活中だなんて言い訳はもうやめなさい、佳代子。少しは道理をわきまえなさい。一年頑張ってもできなかったんだから、これは神様の思し召しよ。まずは妹を助けなさいってね」

 みどりが弱々しく口を挟む。

「お姉ちゃん、もし私に子供がいたとしても、お姉ちゃんが病気なら……」

「もし本当に子供がいたなら、譲歩もするわよ」

 母はみどりの言葉を遮り、冷ややかな目で私を見据えた。

「生きている人間と、影も形もない子供。どっちが大事かくらい、自分でも分かっているでしょう?」

 私は和栄に視線を送った。

 以前なら、彼に助けを求めていただろう。

 彼は私の夫だ。私が子供を授かるためにどれだけの薬を飲み、どれだけの苦痛に耐えてきたかを知っている。

 だが彼は、私の視線から逃げるように目を伏せ、黙って袖口を弄るだけだった。

「多数決しようよ!」

 ずっと傍らでスイッチに夢中になっていた真悠が、突然ソファから飛び降りた。リビングの中央に立ち、まるで正義を司る小さな裁判官のように振る舞う。

「先生が言ってたもん。なかなか決められない時は投票するんだって。それが民主主義だって!」

「それはいい提案だ」

 父がまさかの賛意を示し、頷いた。

「それが一番公平なやり方だ」

 不条理が潮のように押し寄せてくる。だが不思議と息苦しさはなく、ただ茶番劇を見せられているような滑稽さだけがあった。

「ママが骨髄を提供して、みどりおばさんを助けることに賛成の人は挙手!」

 真悠が真っ先に高々と手を挙げ、挑発的な目で私を見た。

 続いて父が。

 そして母が。

 みどりは唇を噛み締め、大粒の涙をこぼしながら「お姉ちゃんに苦しい思いはさせたくない」と呟きつつ、震える右手を挙げた。

 四票。

 全員の視線が、最後に和栄へと注がれる。

 かつて私が深く愛した男。今、彼は期待に満ちた部屋中の視線を受け、それから無表情な私をちらりと見た。

 彼の喉仏がごくりと動く。そしてついに、結婚指輪の嵌まったその手が、ゆっくりと、しかし確固たる意志を持って挙げられた。

 全会一致。

 これが私の家族だ。彼らは今、文明的で、民主的で、温情に満ちたやり方で力を合わせ、私を手術台へと押しやろうとしている。

「分かったわ」

 自分の口から出た声が聞こえた。

 リビングの空気が一気に弛緩する。

 母は安堵の笑みを浮かべた。

「ほらご覧なさい。佳代子だって聞き分けのない子じゃないのよ」

 和栄が歩み寄ってきて私を抱きしめようとした。その声は優しく、甘ったるささえ感じさせる。

「それでいいんだ、佳代子。これからはもっといい家庭にしよう。僕が埋め合わせをするから」

 その生温かい感触に吐き気を覚えたが、私は身をよじらなかった。

 その時、テーブルの上にあった真悠のiPadが鳴った。

 ビデオ通話のリクエストだ。

「あ、担任の先生だ!」

 真悠が声を上げ、和栄が反射的に通話ボタンを押した。

 画面には中年女性の教師が映し出された。背景の音が騒がしい。

「夜分遅くにすみません。車が故障して立ち往生してしまいまして、ビデオ通話での家庭訪問とさせていただきます」

 先生は眼鏡の位置を直し、画面の向こうにいる数人を視線でなぞり、最後に和栄、真悠、そして彼らに寄り添うみどりの姿で止まった。

「中城さん、それに中城の奥様」

 先生は笑顔でみどりに向かって会釈した。

「先日の親子運動会、お二人の連携は本当に素晴らしかったですよ。あの三人四脚、他の保護者の方々も噂していました。あんなに仲の良いご両親とお子さんは珍しいって。真悠くんはこんなご両親を持って幸せですね」

 空気が、再び凍りついた。

 みどりの顔が瞬時に赤く染まり、慌てて弁解しようとする。

「い、いいえ、先生、私は違っ……」

「謝らなくていいよ!」

 真悠が突然、みどりの言葉を大声で遮った。驚くべき庇護欲を爆発させ、私を睨みつけて叫ぶ。

「僕がみどりおばさんにお願いしたんだ! ママになんて運動会に来てほしくなかったから!」

 私はカメラの死角となる影の中に立ち、その光景を眺めていた。

 和栄の顔色が変わる。

 彼は反射的に私を見た。その瞳には狼狽の色が浮かんでいる。

 普段の私なら、今すぐ突進してiPadを奪い取り、先生を問い詰め、理性を失って真悠に手を上げていただろう。

 和栄は、私が骨髄提供を承諾した直後だからこそ、今回ばかりは私の感情を配慮しなければならないと考えているはずだ。心の中ですでに台詞も用意しているに違いない。『佳代子、子供のやったことだ、大目に見てやってくれ。今怒っても外の笑いものになるだけだ』と。

 私が怒りを爆発させ、その後に真悠に謝罪させれば、この件は終わり。それが、骨髄提供を受け入れた私への、彼なりの「恩赦」なのだ。

 真悠は顎を上げ、首を強張らせて、まるで突撃を待つ兵士のように身構えている。叩かれても絶対に頭は下げないという気迫だ。

 一秒、二秒。

 私は突進しなかった。

 ただゆっくりと歩み寄り、そのiPadを手に取った。

 画面の中の先生は、部屋の隅から現れた女が誰なのか分からず、呆気にとられている。

 私はiPadをみどりの手に渡した。

「じゃあ、ごゆっくり」

 私はあくびを一つ噛み殺した。明日の天気の話題でもするかのように、平坦な口調で告げる。

「先生があんなに絶賛してるんだもの、がっかりさせちゃ悪いわよ。私、ちょっと疲れたから、お風呂に入って寝るわ」

 言い終えると、私は誰の顔も見ずに背を向け、寝室へと歩き出した。

 背後には、死のような静寂が広がっていた。

 和栄の視線が私の背中にへばりついているのが分かる。それは、かつてないほどの、底知れぬ恐怖を帯びていた。

前のチャプター
次のチャプター