第4章

 三日目。

 手術準備室の壁は優れた防音仕様になっているはずだが、それでも隣の病室から溢れ出してくる『温情』までは遮断しきれないようだ。

 そこは、みどり の病室だった。

 母親である 春美 の、胸を痛める声が聞こえてくる。

「ああ、私の可愛い娘。神様はどうしてあなたにこんな試練をお与えになったの? ママが代わってあげたいわ」

 父親の 林太郎 の声がそれに続く。豪快な約束で愛娘を安撫しようとしている。

「みどり、いいか。今回の手術がうまくいきさえすれば、サリー州にある別荘はお前の名義にしてやる。お前はこの家の大功労者なんだ、絶対に元気にならなきゃいかんぞ」

 そして、和栄 の声。

「パーティーの企画案は確認済みだ。来週、ロンドンでも最高級のバンドを呼んである。君の新しい人生を祝うためにね」

 それに引き換え、私がいるこの病室は、まるで世界から忘れ去られた片隅のように静まり返っている。

 花もなければ、約束もない。これから骨髄を抜き取られようとしている人間を見舞う者など、誰一人としていないのだ。

 私はベッドの背に寄りかかり、スマートフォンを弄んでいた。画面に映っているのは、病院での暇つぶしにダウンロードしたパズルゲームだ。

 指先で弾けたカラフルなキャンディが、軽快な効果音を立てる。それが、この部屋における唯一の『音』だった。

 控えめなノックと共にドアが開き、青い制服に身を包んだ清掃員が入ってきた。

「失礼します、中城様。ゴミの回収に参りました」

 手際よくゴミ袋を交換していく中年の女性が、ふとサイドテーブルに視線を留める。

 無機質な医療明細の山。その傍らに、不釣り合いなほど瀟洒な黒いベルベットの小箱が置かれていたからだ。

 あの『願いの店』から受け取った、透明な解毒剤。

 すべての苦痛に満ちた記憶を取り戻すことができるという、いわゆる『後悔薬』が入っている。

 清掃員は雑巾を持った手を止め、躊躇いがちに尋ねてきた。

「あの……こちら、まだ必要なものでしょうか? 高価なものに見えますが」

 私は画面を指でなぞったまま、顔も上げずに答える。

「ゴミよ」

 私は淡々と言い放った。

「捨ててちょうだい」

 清掃員は少し勿体なさそうな顔をしたが、雇い主の指示には逆らえない。

 ガシャン、と硬質な音が響く。

 金属製のケースは清掃カートの巨大な黒いゴミ袋の底へと落下し、鈍い衝撃音を立てて呑み込まれた。

「……手術、ご無事をお祈りしています」

 清掃員がカートを押して去っていく。

 画面に表示された『Level Up』の文字を見つめる私の心には、ただ淡々とした空白だけが広がっていた。

 その頃、廊下では。

 みどり を宥め終えた 和栄 が、私の病室へ向かおうとしていた。

 その袖を、真悠 が引っ張る。手には剥きたての蜜柑。みどり のために用意したものだ。

「パパ、あの悪い女のところになんか行かなくていいよ」

 真悠 は蜜柑を口に頬張りながら、悪びれもせずに理路整然と言った。

「どうせ大人なんだから、骨髄をちょっと抜くくらいで死んだりしないって。僕はこれからおばさんに絵本を読んであげるんだ」

 和栄 の足が、凍りついたように止まる。

 彼は我が子を見下ろした。その純粋な悪意と冷淡さ。それはまるで鏡のように、彼自身の姿を映し出していたのだ。

 以前なら、真悠 の率直さだとか、みどり への思いやりだと好意的に解釈していただろう。だが今日、その言葉は鋭い棘となって鼓膜に突き刺さった。

「真悠」

 和栄 の声が低く沈み、厳格な響きを帯びる。

「あれはお前の母親だぞ。おばさんを助けるために、今から手術を受けるんだ。もう少し優しくしなさい。最低限の敬意を払うべきだ」

 父親が突然態度を変えるとは予想していなかったのだろう。真悠 はきょとんとした後、すぐさま不満を爆発させた。

「パパが自分で言ったんじゃん! ママは感情的で、おばさんの方がずっと物分かりがいいって! 僕は本当のことを言っただけなのに、なんで怒られなきゃいけないのさ? ママに優しくしろって言うなら、パパとなんか口きいてやらない!」

 言い捨てると、子供はぷいと手を振り払い、みどり の病室へと走り去ってしまった。

 和栄 は無人の廊下に立ち尽くし、固く閉ざされたドアを見つめる。心臓を、見えざる巨大な手で鷲掴みにされたような感覚。

 それは前代未聞の焦燥感だった。

 何か極めて重要なものが、取り返しのつかない勢いで指の隙間から零れ落ちていくような。

「中城さん?」

 私の病室から看護師が顔を出した。

「奥様の準備が整いました。手術室へ移動します」

 和栄 は弾かれたように顔を上げ、ドアへと駆け寄る。

 ストレッチャーがゆっくりと滑り出てくる。

 彼はそこに横たわる私を見た。顔色は蒼白だが穏やかで、瞳は半ば閉じられ、彼を一瞥しようともしない。

「佳代子……」

 咄嗟に私の手を握りしめる。指先は冷たかった。

「怖くないよ。俺は外で待ってる。終わったら、話があるんだ」

 私は何も答えない。

 手術室の重厚な扉が、彼を拒絶するように閉ざされた。『手術中』の赤いランプが点灯する。それはまるで充血した眼球のように、冷ややかに彼を見下ろしていた。

 それからの数時間は、和栄 にとって数世紀にも等しい長さだった。

 みどり の手術は成功し、医師の報告に親族たちは抱き合って涙した。

 だが、和栄 だけは笑えなかった。彼は私の術後観察室の前から片時も離れなかったのだ。

 罪悪感が雑草のように心の中で繁殖していく。

 佳代子 が目覚めたら、この不毛な冷戦を終わらせよう。彼はそう決意していた。

 離婚届は破り捨て、あの花束を買い直し、真悠 の教育もやり直す。

 彼女を旅行に連れて行こう。ずっと行きたがっていたアイスランドへ。

「これからは、必ず償うから」

 恐怖にも似た動悸を抑え込むように、彼は心の中で何度も繰り返した。

 深夜。麻酔の効果がついに切れる頃合いだった。

 薄暗い常夜灯だけが灯る病室。ベッドの脇に突っ伏していた 和栄 は、指先に伝わる微かな震えを感じ取った。

 がばりと顔を上げる。充血した目には、しかし希望の光が宿っていた。

「佳代子? 目が覚めたか?」

 彼は縋るように私の手を握りしめ、掠れた、優しい声で語りかける。

「よかった……傷は痛まないか? 一晩中考えたんだ。今までの俺は最低だった。もう一度、やり直させてくれないか?」

 私はゆっくりと瞼を持ち上げた。

 視界のぼやけが収束し、見知らぬ天井と、消毒液の臭いが脳を刺激する。

 やがて私の視線は、目の前にいる男の顔で止まった。

 彫りの深い、端整な顔立ちだ。仕立ての良い高級スーツを着ているが、その表情は疲労に塗れ、瞳には複雑な感情――罪悪感、深い情愛、そして安堵への期待――が渦巻いている。

 だが、私の心に浮かんだのは茫洋とした感覚だけだった。

 私はそっと手を引き抜いた。見知らぬ人間に触れられる不快感。それが本能的な拒絶反応を引き起こす。

「……あの」

 私は眉を顰め、礼儀正しく、しかし困惑した眼差しで彼を見つめた。

 そして、彼の希望を根底から粉砕する問いを口にした。

「どなたですか?」

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