第3章

橘善和が階段を降りてくる足音は、いつもよりずっと重々しかった。昨夜の口論が彼の顔に疲労の痕跡を色濃く残しており、目の下にはうっすらと隈ができていた。

「おはよう、善和くん」

私は振り返り、昨夜の不和などまるでなかったかのように、穏やかな笑みを浮かべた。

彼は一瞬呆然とした。私がこれほどあっさりと挨拶してくるとは、予想していなかったのだろう。

「お……おはよう」

彼は硬い声で返した。

私は丹精込めて準備した朝食を食卓へと運びながら言った。

「善和くんの好きなメープルシロップのフレンチトースト、作ったんだ。それに、いつものブルーマウンテンコーヒーも淹れてあるわ」

席に着いた橘善和は、豪華な朝食に視線をさまよわせ、その瞳に複雑な感情をちらつかせた。

「夢佳、昨日のことなんだが……」

彼は謝罪の言葉を切り出そうとした。

「善和くん」

私はそっと首を振り、理解に満ちた眼差しを向ける。

「昨日の夜、ずっと考えていたの。もしかしたら、配慮が足りなかったのは私のほうだったのかもしれないって。あなたの気持ちを考えられていなかったわ」

その言葉に、橘善和は完全に虚を突かれた。用意していたはずの弁解の言葉が、すべて喉の奥でつかえてしまった。

私は言葉を続ける。

「実は、ずっとあなたの為に何か特別なことをしてあげたいと思っていたの。来月はあなたの誕生日でしょう?盛大なお祝いのパーティーを開きたいと思ってる」

「パーティー?」

橘善和の目に驚きがよぎった。

「ええ、財閥界の重要人物たちを招待して、帝国ホテルの最上階にあるバンケットホールで開くの」

私の声は期待に満ちていた。

「橘財閥の次期後継者の素晴らしい人柄を、皆に知ってもらうのよ」

橘善和の表情は次第に緩み、得意げな色さえ浮かべ始めた。

「夢佳……そんなに散財しなくても……」

「散財なんかじゃないわ」

私は手を振ると、ふと何かを思い出したかのように言った。

「そうだ、透君にバースデーソングを演奏してもらうのはどうかしら。彼のピアノの腕前は業界でも並ぶ者がいないし、あなたの誕生日パーティーに花を添えてくれると思うの」

先ほどまで緩んでいた橘善和の表情が、一瞬で凍りついた。

「どう思う?」

私は無垢な瞳を瞬かせ、今の提案がこの上なく自然であるかのように尋ねた。

コーヒーカップを持つ彼の手が微かに震え、平静を装ってなんとか声を絞り出す。

「もちろん……もちろん、いいと思う」

私は心の中で冷笑しつつ、表面上は嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「よかった!それじゃあ早速、ホテルと招待客のリストを手配するわね」


午後三時、橘財閥本部五十八階。近代的なオフィスで、佐藤理恵が仕事の進捗を報告していたが、彼女の意識は明らかに財務諸表の上にはなかった。

「……つきましては第三四半期の純利益は……」

彼女の声は不意に途切れ、その視線は橘善和のデスクの上にある招待状のサンプルに釘付けになった。

「理恵?どうした?」

橘善和は彼女の視線を追った。

「それは……誕生日パーティーの招待状ですか?」

佐藤理恵の声は、どこか甲高かった。

「夢佳が俺のために誕生日パーティーを開いてくれるんだ」

橘善和は淡々と答えた。

佐藤理恵の顔色がさっと青ざめた。彼女は深呼吸をして、どうにか冷静さを装う。

「善和くん、今の会社の状況で、大きなパーティーを開くのは適切でしょうか?最近、色々な噂もありますし……」

「なんの噂だ?」

橘善和は眉をひそめた。

「奥様と、あのピアニストの……」

佐藤理恵は言葉を途中で止めたが、その暗示はあまりにも明白だった。

橘善和の眼差しが、急に冷たくなった。

「理恵、何を言っている?」

言い過ぎたことに気づき、佐藤理恵は慌てて手を振った。

「そういう意味ではありません!ただ……最近の奥様の行動が少し……おかしいと言いますか。善和くんが水野透のことをお嫌いだと知っているはずなのに、わざわざ彼を演奏に呼ぶなんて。これでは、わざとあなたに恥をかかせようとしているのではありませんか?」

橘善和は長い間黙り込み、佐藤理恵の顔をじっと観察した。初めて、彼はこの女の瞳に宿る、剥き出しの独占欲と嫉妬に気づき始めていた。

「理恵」

彼の声は真剣な響きを帯びた。

「夢佳は俺の妻だ。彼女に関する不適切な発言は、二度と聞きたくない」

佐藤理恵の顔はさらに白くなった。自分が完全に失言したことを悟ったのだ。


夜も更け、橘家の別荘の二階にある書斎では、暖かい黄色のデスクライトが机の上に柔らかな光を落としていた。私は扉を軽くノックし、湯気の立つ夜食を手に中へ入った。

「まだお仕事?」

私は銀のトレイを彼の机の隅に置きながら言った。

「あなたの好きなお汁粉、作ったわ」

橘善和は書類から顔を上げ、疲れたようにこめかみを揉んだ。

その時、彼のスマートフォンの画面が光り、佐藤理恵からの着信を表示した。彼は慌ててスマートフォンを手に取ろうとしたが、私はもう見てしまっていた。

それどころか、画面に表示された「不在着信47件」の文字までも。

橘善和は硬直したまま私を見つめ、私の反応を待っていた。

私はそっとため息をつき、瞳に一瞬傷ついたような色を浮かべたが、それはすぐに理解と寛容の色に取って代わられた。

「善和くん」

私はシステムから与えられた心理暗示スキルを使い、一言一言を彼の心の防衛線に的確に落とし込むように、静かに語りかけた。

「あなたが仕事で大変なのは分かってる。傍に有能なアシスタントが必要なのも。私はそんなに物分かりの悪い女じゃないわ」

その言葉は、橘善和を針の筵に座らせた。彼は、私が激怒してくれたほうが、これほど物分かりの良い妻と向き合うよりも、よほどましだと思った。

「夢佳、俺は……」

「何も説明しなくていいわ」

私は優しく、しかし暗示的な口調で続けた。

「だって、物事によっては、知っていても知らなくても、結局、結果は同じでしょう?」

橘善和の顔から血の気が引いた。

その言葉の深い意味が、彼を恐怖に陥れた。

私は彼の背後に回り、強張った肩を優しく撫でる。

「ただ願うのは、何があっても、あなたがすべてをきちんと処理してくれること。だって、私たちは夫婦で、栄辱を共にする仲なのだから」

「栄辱を共にする」、その言葉が、橘善和の耳には心を貫く刃のように響いた。

スマートフォンが再び鳴り、佐藤理恵の名前が画面に現れる。

私はそれを一瞥し、淡く微笑んだ。

「出てあげて。きっと大事な仕事の話よ。私は下に降りているわ」

扉の前まで来ると、私は振り返って付け加えた。

「そうだ、誕生日パーティーの招待状、明日には発送するわね。きっと、皆にとって忘れられない夜になるはずよ」

扉が静かに閉まり、薄暗い書斎に橘善和が一人取り残された。鳴り止まない電話の着信音に晒されながら。

彼の手は震えていた。

【ピーン——ターゲットの心理的防衛線の崩壊開始を検測】

【胸糞値+15%、現在合計40%】

【新スキル解放:感情操作——些細な言動でターゲットの感情の方向性を誘導可能】

【システムヒント:第二段階の布石完了。ホストは決戦計画の準備開始を推奨】

私は一人、階下の掃き出し窓の前に立ち、美しい招待状のサンプルを手の中でもてあそんでいた。

月光が、箔押しの金文字の上できらきらと輝いている。まるで私の瞳に宿る冷たい光のように。

「帝国ホテルの最上階にあるバンケットホール」

私は静かに独りごちた。

「いいじゃない」

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