第1章 運命の分かれ道
孤児院の前、そこには二台の対照的な車が停まっていた。一台はごく普通のファミリーカー、もう一台は金属の光沢を放つレクサスの高級車。二組の夫婦が院長の前に立ち、時折、庭で遊ぶ子供たちへと視線を送っている。
私はあの裕福な夫婦を知っていた。出版社の社長とその妻で、養子に迎えるのにふさわしい子を探しにここへ来たのだ。そして彼らの視線は、今まさに私と桜の間を行き来していた。
「どちらのお嬢さんもとても良い雰囲気ね」社長夫人が小声で言う。
「一人は気品があるけれど、従順さに欠ける。もう一人は賢そうだけれど、優しさが足りないわ」
すると、空中にさらなるコメントが浮かび上がるのが見えた。
『桜を選べよ!彼女こそがヒロインだ!』
『↑それは違う。鈴みたいなキャラこそ、金持ちに引き取られて悪役令嬢になるべきだろ!』
『「桜花学園の復讐プリンセス」の筋書き通りなら、鈴が社長夫婦に選ばれるはず!』
『桜花学園の復讐プリンセス』?
私は眉をひそめた。この小説の名前をコメントから知ったのは、これが初めてだった。私の運命を記録、あるいは予言しているらしい、その小説の。
出版社の社長夫婦は、ついに微笑みを浮かべて私の方へと歩み寄ってきた。
心臓が速くなる。これが私の運命の転換点なのだろうか?金持ちの家の養女になり、そしてあの「悪役令嬢」へと成り果てる?
その時だった。見知らぬ中年夫婦が突如私の前に現れ、社長夫婦の進路を塞いだのは。
「あらまあ、この子、なんて素敵な雰囲気なんでしょう!」女性が優しく言った。その瞳は真摯な光で輝いている。
「お嬢ちゃん、おじさんたちのお家の温泉旅館でね、今日は名物の温泉蒸し料理を作ったんだ。すっごく美味しいんだよ」男性が低いながらも温かい声で笑いかける。
私は呆然とした。この夫婦は誰?なぜ突然私の前に?
空中のコメントが蜂の巣をつついたように騒ぎ出す。
『なんだこれ?シナリオが違うぞ!』
『この夫婦、原作に一度も出てきてないじゃん!』
『温泉旅館?鈴は富豪に引き取られるんじゃなかったのか?』
私の視線は二組の夫婦の間を彷徨い、一つの選択肢が目の前に突然広がった。
二台の車が、私と桜の前に停まっている。片や豪邸へと続くレクサス。片や質素で飾り気のない日産のファミリーカー。
この邪魔が入ったことで、出版社の社長夫婦は再び迷い始め、小声で話し合っている。「鈴は賢くて利発だが、目つきが鋭すぎる。桜は気品があるが、性格が少しばかり弱々しいようだ」
さらに多くのコメントが浮かび上がるのが、はっきりと見えた。
『悪役になる運命か、可哀想な鈴』
『足掻くなよ。養子になっても性格の問題で送り返されるのがオチだ』
『悪役には悪役の覚悟ってものがあるだろ。大人しく運命を受け入れろよ!』
それらの無慈悲なコメントが、ナイフのように私の心を突き刺す。私は拳を握りしめ、温泉旅館を経営していると名乗る夫婦を見上げた。男性はがっしりとした体格に優しい眼差しをしていて、女性は優雅で気品があり、慈愛に満ちた顔立ちをしていた。
彼らは、あの小説から出てきた登場人物ではない。彼らは……予期せぬ、変数。
私は深く息を吸い込み、決断した。踵を返し、あの温泉旅館の夫婦の方へ、山田千代おばさんの腕の中へと歩み寄った。
「あなたたちと、一緒に行きたいです」私はそっと言った。
空中のコメントが一瞬にして沸騰する。
『は?出版社の社長を断っただと?!』
『シナリオが崩壊したぞ! 彼女は富豪の家に行くはずだろ!』
『これじゃ「桜花学園の復讐プリンセス」の設定と合わない!』
出版社の社長夫婦は一瞬呆気にとられたが、すぐに桜の方へ向き直り、無理に笑顔を作った。「では、桜ちゃん、君は私たちと一緒に来てくれるかい?」
桜の瞳に、まるで競争にでも勝ったかのような得意の色がちらりと過った。彼女は小さくお辞儀をする。「喜んで、あなた様の娘にならせていただきます」
豪華なレクサスへと向かう桜を見つめても、私の心には一片の羨望も後悔もなかった。
日産の車の後部座席に座りながら、私は思い出に浸っていた。
物心ついた時から、私は特定の条件下で、宙に浮かぶネットのコメントが見えた。最初は幻覚だと思っていたが、次第に理解していった。これらのコメントは、ある並行世界の読者たちのもので、彼らは『桜花学園の復讐プリンセス』という小説を読んでいるのだと。
そしてさらに恐ろしいことに、私はどうやら、その小説の中の「悪役キャラクター」らしいのだ。
孤児院では、私と桜は限られた資源と注目を常に奪い合ってきた。桜はいつも可憐で哀れっぽく振る舞い、一方で私は率直な性格ゆえに「トラブルメーカー」と見なされていた。年を重ねるにつれ、私は自分がただ桜の「引き立て役」で、敗北を運命づけられた悪役に過ぎないのだと悟るようになった。
そして今日、私は重要な選択をした。シナリオ通りに富豪の家へ行くことを拒み、代わりにこの質素な温泉旅館の夫婦を選んだのだ。
空中のコメントは、なおも私を嘲笑っている。
『お嬢様の運命を捨てるとは、なんて愚かな!』
『見てろよ、温泉旅館が豪邸より快適なわけない。後悔するがいい!』
『あの性格じゃ遅かれ早かれ追い出される。筋書きが少し先延ばしになっただけだ』
自分の選択が、追い出されるという結末に繋がるのではないかと、私は緊張して座席を掴んだ。
「緊張しなくていいよ、お嬢ちゃん」運転していた男性がバックミラー越しに私を見て、穏やかに笑った。「俺は山田健太。昔は警視庁の警官で、今は妻と一緒に実家の温泉旅館をやってるんだ」
「私は山田千代」助手席の女性が振り返って微笑む。「あなたのお名前は、なんていうのかしら?」
私は唇を噛んだ。「鈴です。みんな、鈴って呼びます」
「鈴……」山田千代は考え込むように言った。「純粋さや希望を象徴する、あの涼やかな鈴のことかしら? 本当に素敵な名前ね。おばさん、これからはあなたのこと、鈴子って呼ぶわ!」
鈴子……その名前が、私の心に響いた。
お嬢様でもなく、悪役でもない、ただの……鈴子。
「ありがとうございます、おばさん。とても気に入りました」私は初めて、心からの笑みを浮かべた。
山田温泉旅館は山の中腹にあり、古風な木造建築が青々とした木々に囲まれていた。遠くには、曲がりくねった山道と連なる山々が見える。
私は小さなテーブルの前に窮屈に座りながら、院長が別れ際に言った「人に迷惑をかけないように、聞き分けの良い子でいるんですよ」という言葉を思い出していた。
千代さんが、温泉蒸し野菜、山のきのこ汁、手作り豆腐といった、一皿一皿丁寧な料理を運んできた。どれも食欲をそそる香りを放っている。
「たくさんお食べ」山田健太が甲斐甲斐しく私の茶碗におかずを盛る。「お嬢ちゃん、ずいぶん痩せてるみたいだからな」
「もし口に合わなかったら、別のものを作ってあげるからね」千代さんが優しく言う。
孤児院の質素な食事を思い出す。一週間七日、繰り返される献立、決して豊かではなかった。目の前のこれらの手の込んだ料理は、まるで現実とは思えなかった。
私はおそるおそる温泉蒸し野菜を一口味わった。「おいしいです!本当に、すごくおいしい!」私の目が輝き、思わずもう何口か頬張った。
山田夫妻は顔を見合わせて微笑み、明らかに私の反応に満足しているようだった。
食べながら、私は思う。旅館の料理って、本当に美味しい。この家に、ずっといられたらいいな。これが夢じゃありませんように……あのコメントが間違っていて、私が追い出されたりしませんように。
夕食後、千代おばさんは私を浴場へ連れて行ってくれた。
「うちのお風呂は天然温泉でね、ミネラルが豊富だからお肌にとてもいいのよ」千代おばさんは、正しい温泉の入り方を教えながら説明してくれた。「まずはかけ湯で体を洗い流して、それからゆっくりと湯船に入るの。一気に全身浸からないようにね」
私は指示通りに注意深く湯船に入った。温かいお湯が体を包み込み、今までにないほどの安らぎが心に満ちていく。
しかし、そのリラックスした瞬間、私は空中のネットコメントが異常なほど鮮明になり、その数も激増していることに気づいて驚愕した!
コメントはもはや断片的ではなく、完全な議論のスレッドを形成していた。
『第三章の筋書き 鈴、桜が富豪に引き取られたことに嫉妬し、学校で彼女を貶める噂を流す』
『第五章 鈴、桜を陥れる罠を仕掛け、彼女を退学寸前に追い込む』
『第七章 鈴、主人公の鹿島大輔を誘惑するも、きっぱりと拒絶され、逆上して桜への報復を激化させる』
『最終回 鈴の悪事がすべて暴かれ、最終的に学校を退学処分となり、誰からも唾棄される存在に成り下がる』
これらのコメントは、『桜花学園の復讐プリンセス』における「悪役」の未来を詳細に予言しており、私は背筋が凍る思いだった。
温泉が、どうやらこれらのコメントを見る私の能力を大幅に強化しているらしい!
「どうしたの、鈴子?」山田千代が私の異常な様子に気づく。「さっきから、空中のどこかをじっと見つめているわ」
私はためらった。宙に浮かぶコメントが見えることを、この養母に話すべきだろうか?
あまりにも荒唐無稽で、頭がおかしいと思われるのではないか?
「おばさん……もし私が、他の人には見えないものが見えるって言ったら、信じてくれますか?」私は探るように尋ねた。
山田千代は思案深げに私を見つめた。「うちの温泉は、人の知覚を高める力があると言われているの……古い書物には、ここの源泉が何か特別な力に繋がっていると記されているわ。あなた……何が見えたの?」
私は驚いて養母を見つめ、どう答えていいかわからず口ごもった。
山田千代はそっと私の隣に移動し、優しく私の肩に手を置いた。「あなたが何を見たとしても、怖がることはないわ。この家では、本当のあなたでいていいのよ」彼女の眼差しは、揺るぎなく慈愛に満ちていた。「生まれつき、人と違う子もいる。それは呪いなんかじゃない、贈り物なのよ」
温泉の湯気で視界がぼやけたが、千代さんの瞳にある真摯さははっきりと感じ取れた。
私を疑うどころか、私の特異さを受け入れようとしてくれる人に会ったのは、これが初めてだった。
「ありがとうございます、おばさん」私はそっと呟き、一筋の涙が静かに頬を伝った。
山田千代は微笑んで私の涙を拭ってくれる。「今日から、ここがあなたの家よ。何があっても、私と健太おじさんはあなたの味方だから」
湯気が立ち込める温泉の中で、養母の温かい腕に抱かれながら、私は初めて、あの小説が私に用意した「悪役の運命」を、本当に変えられるかもしれないと感じた。
空中のコメントはまだ続いている。だが今、家族という支えを得た私にとって、それらはもはや、それほど恐ろしいものではなかった。








