第3章 山田鈴子

その日、私は客間の掃除を終えたばかりだった。すると、書斎から山田健太さんに呼ばれた。

「鈴子、ちょっとこっちへおいで」

私は手にしていた雑巾を置き、書斎へと足を踏み入れた。山田夫妻は低いテーブルを挟んで座っており、その上には何枚かの書類が広げられている。

「戸籍の登録について、君と話がしたいんだ」山田健太さんが真剣な面持ちで言った。

私の心臓が、ずしりと重くなる。

「緊張しないで」私の不安を察したのか、山田千代さんが微笑みながら説明してくれた。「正式に養子縁組の手続きをして、あなたを私たちの娘にするの。そのためには、あなたの正式な名前を決めなくちゃいけないわ」

「名前は、人と人との間で最も大切な繋がりだ」山田健太さんは真摯な眼差しで続ける。「だから、君自身の考えを聞きたい」

私は初日に、千代おばさんが「鈴子」という名前を提案してくれた時のことを思い出した。あの時の温もりが、心の底から込み上げてくる。

「私……『鈴子』という名前が、とても好きです」私は勇気を振り絞って言った。「もしよろしければ、この名前にしたいです」

山田千代さんの目が、みるみるうちに潤んでいく。「本当?私がつけた名前を、気に入ってくれたの?」

私は力強く頷いた。「はい!人生で初めてもらった、本当の私の名前ですから」

山田健太さんは嬉しそうにテーブルを叩いた。「よし、決まりだ!今日から君は、山田鈴子。私たちの娘だ!」

山田千代さんは立ち上がって私を強く抱きしめ、涙が止めどなく溢れていた。「ようやく、私たちに子供が……」

私も泣いた。この瞬間、私はもう孤児院の「鈴子」でも、小説の中で悪役になる運命の「鈴」でもない。愛される子供、山田鈴子なのだ。

時はあっという間に流れ、私は小学校から中学校へと進級し、田舎の生活リズムにもすっかり慣れていた。毎日放課後には温泉旅館の仕事を手伝い、週末は養父母に料理の腕を教わった。

ある日のこと、学校の図書室の雑誌コーナーで、一冊の小説誌が目に留まった。表紙には『桜花学園の復讐プリンセス』の最新巻が堂々と掲げられている。華やかな制服に身を包んだ佐藤桜が、豪華な校舎の中央に立ち、周りを羨望の眼差しを向ける同級生たちに囲まれていた。

私は一瞬ためらったが、やはりその雑誌を手に取り、ページをめくった。

作者インタビューでは、佐藤桜が出版社の社長に引き取られた実在の少女をモデルに創作されたと書かれていた。写真に写る佐藤桜はブランドの服を身にまとい、豪華な別荘に住み、洗練されたお嬢様としての生活を送っている。

途端に、目の前にコメントが浮かび上がった。

『佐藤桜を見てから鈴を見ると、まさに月とすっぽんだな』

『一方は出版社の社長令嬢、もう一方は田舎の温泉旅館の子か。運命って不公平だよな』

『佐藤家は桜に最高の塾に通わせてるのに、鈴はまともな学区にすら通えない』

私はそっと雑誌を閉じた。これらのコメントは、もはや以前のように私の心を刺すことはなかった。

健太おじさんが護身術として教えてくれた合気道の動きを思い出す。千代おばさんが伝授してくれた料理の腕前のおかげで、学校の料理コンテストで一位を取れたことを思い出す。山田夫妻が毎晩交代で物語を読み聞かせ、人としての道を説いてくれたことを思い出す。

これらは、お金では買えないものだ。

私は、自分が少しずつ『桜花学園の復讐プリンセス』で設定された「悪役」としての行動パターンから抜け出していることに気づいていた。

小説の中の私は、嫉妬深く、心の狭い意地悪な悪役令嬢のはずだった。しかし現実の私は、山田夫妻の愛によって強く、優しくなっていた。

中学二年生の文化祭前日、クラス委員長の中村悠太が活動費を机の引き出しに入れた。

「ねえ、委員長。クラスのお金を引き出しに入れっぱなしにするのは危ないよ」私は念のため注意した。

委員長は意に介さず笑う。「大丈夫だって。うちのクラスに泥棒するような奴がいるわけないだろ?」

その時、宙に一つのコメントが浮かび上がるのが見えた。

『小説の筋書き通りなら、鈴は窃盗で孤児院に送り返される。第三巻の重要なターニングポイントが来るぞ!』

私は鼻で笑った。なんて馬鹿げたコメントだろう!私がクラスメイトのお金を盗むはずがない。私はもう、孤児院で食い扶持を奪い合うために手段を選ばなかった、あの頃の少女ではないのだ。

しかし、私が背を向けて立ち去ろうとした、その時。自分の手が、意思に反して隣の席の引き出しへと伸びていくことに気づき、恐怖に凍りついた。まるで目に見えない力に導かれているような、運命が小説の筋書き通りに行動させようと強制しているような感覚。

「やめろ!」

私は咄嗟に手を引っ込め、額に冷や汗が噴き出した。どういうことだ?なぜ私にこんな衝動が?

まさか……小説の筋書きには、本当に私の行動を操ろうとする、何らかの力が働いているというのか?

私は、あの「悪役令嬢」になる運命から逃れられないというのか?

拳を固く握りしめる。爪が手のひらに深く食い込んだ。

いや、そんなことはさせない。どんな力が私を操ろうとも、私は最後まで抗ってやる。

前のチャプター
次のチャプター