第1章
剥鱗者になって六年目。ついに、百本目の竜息精華を貯めきった。
祭壇の前に膝をつき、両手で晶瓶を捧げ持つ。中でゆらめく金の光が、傷だらけの指の節を照らした。六年――五族でもっとも危険な戦場と、疫病のはびこる荒れ地を渡り歩き、竜息で負傷者を癒やしてきた。ひとり治すたび、生きたまま自分の竜鱗を一枚剥ぎ取り、下の真っ赤な肉を晒して。
腕に目を落とす。かつては流光の鱗で覆われていた肌は、いまや剥げ落ちた跡が幾筋も刻まれ、刃物で何度も削がれたみたいに醜く荒れていた。
背に残る鱗、最後の七枚。
あと七枚しかない。
けれど、兄のルーシェンを救えるのなら――それでいい。
六年前の屠竜戦で、両親は人族に暗殺された。ルーシェンは古い呪いを受け、竜鱗が日ごとに砕けていった。解呪には百回分の竜息精華が必要だと、彼は言ったのだ。
晶瓶を差し出し、震える声で告げる。
「ルーシェン……百本。やっと、揃った……」
ルーシェンは瓶を受け取り、ひと目だけ中を見た。
そして――祭壇から、無造作に放り捨てた。
「ぱん」
乾いた音。晶瓶は砕け、六年分の竜息精華は金の流光となって、跡形もなく蒸発した。ひとかけらの残り香すらない。
身体が固まった。膝をついたまま数秒、呆然として――ようやく顔を上げる。
ルーシェンは祭壇の高みに立っていた。逆光の中、表情は空っぽ。
彼の竜鱗は、完璧だった。
一枚も――欠けていない。
「俺は呪いなんて受けてない」
そう言い放つ。
両手はまだ瓶を捧げる形のまま、十本の指が宙で凍りつく。
「父上も母上も死んでない」
「六年前の屠竜戦は、俺が仕組んだ。重傷を負って、翼を折られて、使い物にならなくなったのは――お前だけだ」
頭の奥で、どん、と何かが爆ぜた。槌で叩き潰されたみたいに、世界が粉々になる。
「……なに……言って……」
声が震える。違う。私自身が震えている。
言葉を咀嚼する間もなく、背後から聞き慣れた声がした。夫――ケール 。白狼王。
石柱にもたれ、いつもの気だるげな姿勢。取るに足らない話でもするみたいに。
「俺も獣王の力は失ってない」
勢いよく振り向く。
彼は口端を吊り上げた。
「荒原で苦修してくるって言ってたのはさ、あの暗くて湿った地下穴でお前と肩寄せ合うのが嫌だっただけ。王城の宮殿に帰ってた」
見つめても、唇が震えるばかりで、ひとことも出ない。
「本当は、もう数年は鍛えてやるつもりだったんだが」
ケールが鼻先をわずかにしかめる。
「お前の腐りかけた鱗、臭すぎる。俺もお前の兄も、もう無理だ」
……臭い?
全身の剥鱗の傷。彼らを救うために引き剥がした一枚一枚。夜ごと痛みに丸まり、手首を噛んで声を殺した瞬間。そのすべてが、彼の口ではただの「臭い」になる。
膝をついたまま、爪を掌に食い込ませる。痛みだけが、最後の理性をつないだ。
「……前に貯めた竜息精華は?」
嗄れた声で問う。
「どこにやったの?」
「シルヴィに飲ませた」
ルーシェンは当然のように答えた。
シルヴィ・サーペンタイン。竜族に拾われた、蛇族の捨て子。
「蛇族の寒毒体質には竜息で温める必要がある。そうしなきゃ、竜族の血筋に見せかけられないからな」
その言い方には、薄い甘さすら混じっていた。
「お前の竜息精華は、全部、使うべきところに使っただけだ」
心臓を誰かに掴まれ、きりきりと捩られていく。
六年。剥鱗のたびに痛みで意識を失い、目覚めたら次の依頼人へ走った。『不吉な剥鱗竜』と唾を吐かれ、傷口に厄払いの毒水を浴びせられた。疫病の地で死にかけて、それでも生き延びた――
全部、あの子のために。
「……じゃあ、私の子は?」
顔を跳ね上げ、声がほとんど叫びになる。
屠竜戦のあと、子は助からなかったと告げられた。竜と狼の混血の幼子は脆すぎて、あの惨禍を越えられない、と。
ケールが軽い調子で言う。
「エンバーは死んでない。生まれたその日に、俺がシルヴィに抱かせた」
空気が抜け落ちたみたいに、世界が真っ白になった。
喉の奥から、すすり泣きとも、何かが折れる音ともつかない声が漏れる。
「竜狼の混血は貴重だからな」
ケールは私を見て、当たり前の顔をする。
「どうして剥鱗竜なんかに育てさせる? シルヴィは優しくて、品もある。あいつのほうが、子にはいい」
身体の力が抜け、祭壇の上に崩れ落ちた。芯から冷えていく。
そのとき、遠くから足音が響いた。
二つの影が、まるで疫病神でも避けるみたいに、距離を取って立っている。
父と母――生きていた。
暗殺もされていない。屠竜戦で無残に死んでもいない。六年前よりもいっそう華やかに、何事もなかったように。
母は眉をひそめ、私の剥き出しの血肉と残り鱗を、露骨な嫌悪で見下ろす。
「だってあなた、竜息者だってことをいいことに、シルヴィを好き放題いじめたでしょう。私たちは少し、あなたにお灸を据えただけよ」
父の声はさらに冷たかった。
「今後二度とシルヴィに手を出さないと誓うなら、お前はまだ竜族の嫡女だ。だが誓えないなら――血の縁は切る」
俯き、手を見る。
穴だらけ。どこにも、無傷の皮膚なんて残っていない。
あなたたちを救うために。
そう言いたかった。全部、あなたたちのためだったのだと。
けれど喉が何かで塞がれ、声にならない。
その瞬間、意識の最奥――竜魂祭壇のさらに底から、老いて哀れみ深い声がゆっくりと響いた。遠古の竜祖、その意志の残滓。
【竜息者よ。虚無へ還り、この界を離れるか】
涙が頬を伝い、鱗のない血肉へ落ちる。じり、と灼けるように痛い。
「……出る」
口の中の肉を噛み切った。鉄の味が喉へ上がる。
【受理。カウントダウン、二十四時間】
