第3章
五族祭典の大広間。各族の族長が一堂に会していた。
私が一歩足を踏み入れた瞬間、視線が刃みたいに突き刺さってくる。
使者や長老たちはそれぞれの席に端然と座り、ひそひそと言葉を交わしていた。何を話しているのかまでは聞き取れない。けれど、あの目に浮かぶ嫌悪と好奇心だけは、痛いほど見慣れていた。
「――あれが、鱗を剥がれた竜か?」
「六年も姿を見せなかったのに、ずいぶんみすぼらしくなったな」
構うものか。
剥き出しの血肉と、かろうじて残った数枚の鱗が火明かりに照らされて、いやになるほど目立つ。けれど、もうどうでもよかった。
十二時間。
あと十二時間耐えれば、すべて終わる。
母がいつの間にか私の横に現れ、周囲がよそ見をした隙に、血の色をした巻物を手のひらへ押し込んできた。
「これを読みなさい」
低く、命令。交渉の余地なんて欠片もない声だった。
私は巻物を開く。
『我は誘拐されたのではない。幼少の折に自ら迷い出たのみ。シルヴィの母は情け深く我を保護し、その恩は再生に等しい。帰郷ののち我はシルヴィを妬み、ことごとく難癖をつけた。竜族を名乗るに値せず。六年の閉門にて己を省み、いま竜息をもって証とし、シルヴィを姉と仰ぐ』
一文字一文字が、頬を叩く平手打ちみたいだった。
――自分で迷い出た? 情け深く保護?
忘れられるはずがない。幼い頃、光の届かない蛇穴。熱い蛇毒を一滴、また一滴と小さな竜鱗に垂らされ、痛みで痙攣し、身体が勝手に跳ねた。泣きながら母を呼ぶたび、蛇族の養母は私を蹴り飛ばして吐き捨てた。
「誰が母だって? うちの娘はお前の竜族の豪巣で、お前の代わりにぬくぬく幸せに暮らしてんだよ!」
父が苛立った声で急かす。
「早く読め。各族の族長が見ている」
私は巻物の最後の一行まで目で追い、指先を、少しずつ、少しずつ握り込んだ。
そして――五族の全員の前で。
掌から竜息が噴き出し、金色の炎が一瞬で巻物を呑み込んだ。
会場が凍りつく。
「どうして私が、蛇族の捨て子に、私を虐げた人さらいの娘に、ひれ伏さなきゃいけないの?」
沈黙は一秒だけだった。
私は首を巡らせ、壇上に立つシルヴィを睨み据える。彼女は本来なら私が纏うはずの竜族の礼装を着て、本来なら私が戴くはずの嫡女の冠を載せていた。その背後には――私の両親。私のルーシェン。私の夫。
そして、私の息子。
「だったらあなたが各族に説明してよ」
歯の奥がきしむほど噛みしめる。
「竜族の嫡女の座を二十年も奪ってまだ足りない? どうして私の夫まで奪って、私の子まで連れていくの?」
大広間が、爆ぜた。
使者たちが顔を見合わせ、ざわめきは煮え立つ湯のように盛り上がる。
シルヴィの顔色が白くなったのは、ほんの一瞬だけ。
次の瞬間には、狙い澄ましたように瞳が潤み、唇が小さく震えた。何度も見てきた――理不尽に傷つけられた被害者の顔。
「お姉さま……どうしてまた、私を陥れることを言うの?」
柔らかい声。針みたいに細いのに、胸の奥へ痛みを残す。
そうして彼女は袖から獣骨を取り出した。そこには婚姻を示す刻印が彫られている。
金色の文様が火明かりに灼けるように輝き、疑いようもない形で、一本一本が真実として突きつけられた。
「白狼王の正妻は私。あなたは、名のない人でしょう」
頭の中で、どん、と何かが爆ぜた。
私は駆け寄って獣骨を奪い、ひっくり返して何度も確かめる。刻印は本物だった。
――だから。
だから、私が婚姻の儀のことを訊ねるたび、ケールは「刻印骨は貴重だ」と言ってはぐらかしていたのだ。
私はぎこちなく彼のほうを見た。
ケールは石柱にもたれ、平然としている。むしろ「ようやく隠さずに済む」と言わんばかりの軽さすらあった。
「アリア、肩書きなんてどうでもいいだろ。俺の心にお前がいるって分かってれば、それで十分じゃないか?」
一拍置いて、さらに言う。
「そもそも、最初にシルヴィの竜族嫡女の立場を奪ったのはお前だ。彼女に白狼王妃の名をやるくらい、別に不公平じゃない」
私が言い返すより早く、ルーシェンの声が大広間の上から落ちてきた。
「失礼。お見苦しいところを」
彼は一度ぐるりと見渡し、各族の族長へわずかに頭を下げる。
「妹はこの数年、精神が安定しておりません。竜族には古い病がありまして――逆鱗狂症。幻覚や妄想が出る。彼女の言葉は、どうか真に受けないでください」
その瞬間、周囲の目が変わった。
哀れみ。嫌悪。関わりたくないという拒絶。そして「なるほど」と腑に落ちた顔。
「だから嫡女が鱗剥ぎ竜になったのか。狂ってたんだな」
「シルヴィ様が気の毒だ……こんな狂人に付きまとわれて」
「ママをいじめるな!」
幼い影が人混みから飛び出し、私へ突っ込んできた。大した力じゃない。けれど、狙いすましたみたいに腹のいちばん深い古傷へぶつかり、視界が真っ黒になる。よろめいて、そのまま床に倒れた。
エンバー。
私の子。
彼は私の前に立ち、小さな身体をきりりと伸ばしている。頭頂には生えかけの竜角。瞳はケール譲りの琥珀色。
全身が震えた。
六年。生まれたその瞬間に抱き上げられ、私は一度も顔を見ないまま奪われた。夜ごと洞穴の隅で痛みに身を縮めながら、どんな顔なのか、私に似ているのか、それともケールに似たのか――そればかり考えていた。
いま、その子が目の前にいる。
私は反射的に手を伸ばし、頬に触れようとして――
ルーシェンが私の腕を掴んだ。爪が肉に食い込む。
「シルヴィはお前と違って、何も持ってない」
低く囁く声。言葉の一つ一つが毒を塗った針みたいだった。
「俺は、彼女の子をお前に奪わせない」
私の手が、宙で固まる。
――何も持ってない?
彼女は私の身分を持っている。私の家族を、私の夫を、私の子を。私の六年分の竜息の精髄すら。私の名分まで、全部。
それで、何も持っていない?
エンバーはシルヴィの背に隠れ、半分だけ顔を覗かせた。怯えと敵意を混ぜた目で私を睨む。
――その目。
まるで、家に入り込んだ怪物を見るみたいに。
「でも……この子は私の子よ」
声が砕けて、ほとんど聞こえない。
「命がけで産んだのに……」
言い終える前に、ルーシェンの顔が底まで沈んだ。
彼は記憶石を取り出す。空中に映像が広がり、音のないまま再生された。
三年前。
療養の途中。人目のない獣道。私は獣人の狩人たちに引きずられて洞穴へ――
ルーシェンは私の耳元に口を寄せる。
「これをケールとエンバーが見たら、どう思うと思う? エンバーは、そんな母親が欲しいか?」
映像の光が揺れて、目の前がくらむ。
映像は偽物。
でも、出来事は本物だった。
服が引き裂かれる直前まで、私は考えていた。ルーシェンが助けに来る。必ず来るはずだ、と。
来なかった。
あの連中は、最初から彼が手配していたのだから。
喉の奥に鉄の味が込み上げ、堪えきれず叫ぶ。
「私、ほんとうに……あいつらに犯されたのよ!」
悲鳴が大広間に反響した。
それでもルーシェンは眉ひとつ動かさない。
「いい加減にしろ。芝居は終わりだ」
声は刃のように冷たい。
「あいつらは俺が大金で雇った。竜族の嫡女に手を出せるほど、度胸のある奴なんかいるか」
「お前はいつもそうやって、罪悪感を煽って俺たちを振り回す。シルヴィを追い出したいだけだろ。どうしてそこまで彼女が気に入らないんだ」
私は口を閉ざした。
言葉がないからじゃない。
言っても、届かないからだ。
最初から最後まで、彼らが信じるのは信じたいものだけ。私の傷も、痛みも、証拠も、彼らにとっては全部「芝居」と「可哀想アピール」にすぎない。
視界の端で、無音のカウントダウンが明滅していた。
【カウントダウン――残り五時間。】
