第4章
「この鱗剥ぎ竜、他人の夫を奪おうとしてる!」
鋭い罵声が上がった瞬間、場が爆ぜた。
伴侶に裏切られた経験のある各族の女たちが、まるで最高の八つ当たり先を見つけたみたいに、血走った目で私へ殺到する。
避ける暇なんてなかった。重い平手打ちと、爪の生えた拳や蹴りが、夕立みたいに容赦なく叩きつけられる。
「この恥知らずの下種、叩き殺せ!」
「男をたぶらかして! 妹の夫まで奪うなんて、死ね!」
一発蹴られるたび、神経ごとひきつるほど痛い。
頭を庇い、密集した暴力の中で、瀕死の虫みたいに地面を転がった。
混乱のさなか、シルヴィのか細い悲鳴が聞こえた。胸元を押さえ、ふらりと傾いて倒れかけながら言う。
「ルーシェン、みんな乱暴すぎる……怖い……」
たったそれだけで、ルーシェンとケールの注意は易々と全部そっちへ引きずられた。
無数の脚の隙間から見えたのは、青ざめた顔で駆け寄り、シルヴィを横抱きにしたルーシェンの姿。振り返りもせず、そのまま去っていく。私には一瞥すら寄越さない。
ケールは数歩離れたところに立ち、見下ろすように私を一度だけ見た。そこに温度は欠片もない。嫌悪が、薄く滲む。
「ただの憂さ晴らしだ。お前は竜族の体だ、死にはしない」
冷たく言い捨てると、彼も背を向けて歩き去った。
「――っ!」
誰かが硬い革靴で、私の下腹を思い切り蹴り抜いた。
腹の中で、まだ形にもなっていない、私が必死に守っていた竜卵が――砕けた。
黄金の液体が、太腿の内側を伝ってどくどくと溢れ出す。極限まで純度の高い竜脈の精血。私が育てていた、二人目の子の――。
誰も手を止めない。彼女たちにとってそれは、怪物の吐き気を催す血でしかなかった。
私は地べたに丸まり、痙攣する力すら出ない。耳元には雑多な罵声だけが残り、腹の奥のかすかな鼓動が、ぷつりと途切れた。
この子自身も知っていたのかもしれない。ここは地獄だ。来るべき場所じゃない、と。
巣へ引きずり戻された頃には、私はほとんど息だけになっていた。
大殿の中央で、シルヴィはケールの腕の中に凭れ、鎮めの霊薬を飲んでいる。両親はその周りでやれ寒くないかだの平気かだのと大騒ぎで、少しでも怯えていないかと気を揉む。私はというと、破れた獣皮みたいに、冷たい石床へ放り投げられた。
シルヴィが私を見る。瞳の奥に、隠しもしない毒々しい高揚が走った。ケールの手を押しのけ、殊勝な顔で私の前にしゃがみ込む。
「お姉さま……どうしてこんなに酷いことに?」
そして耳元へ顔を寄せ、私にしか聞こえない声で、一音ずつ毒を吐く。
「あなたの愚かな子、もう飽きたの。ねえ、また子竜を産んで? 新しいのがいい。私の機嫌が良ければ、玩具を壊す前に――一度くらい見せてあげてもいいけど」
理性が、その瞬間にぷつんと切れた。
残った最後の息を掻き集め、私は腕を振り上げる。あの偽善の皮を、引き裂いてやる――!
殺してやる。必ず、殺してやる!
けれど指先が彼女の頬に触れるより先に。
「ぱんっ!」
片側の頬が一瞬で痺れ、巨大な力で跳ね飛ばされた。ごつごつした竜骨の柱へ、背中から叩きつけられる。
ルーシェンが、私の前に立っていた。視線は冷えきっていて、私を千切り刻むみたいに鋭い。
「盛アリア! いい加減にしろ!」怒号が大殿に響く。
「みんなの前で、まだシルヴィに手を上げる気か! どこまで醜悪になれば気が済む!」
「ママをいじめるな!」
幼い叫びが弾けた。
エンバーが突進してくる。手に握っていたのは、凄まじく鋭い竜骨の棘。迷いもなく、血に濡れた私の下腹へ突き立てた。
「ぶつっ」
骨が皮膚と肉を裂く音が、死んだように静まった巣の中で、やけに鮮明に響いた。
エンバー自身も固まった。刺さるとは思っていなかったのだろう。小さな顔がみるみる青ざめ、手が震える。それでも必死に虚勢を張り、私を睨みつけた。
その瞬間、腹の傷はもう痛くなかった。痛覚なんて届かない場所で、私の心が、この骨の棘にぐちゃぐちゃに掻き回されたからだ。
半分の命で産んだ子を見つめ、私は言った。
「そんなに庇うのは、その人があなたの母親だから? でもね……私が、あなたを産んだのが私だって言ったら?」
「黙れ!」
父が癇癪を起こしたように、手にしていた茶杯を私へ叩きつける。
「でたらめを抜かすな!」
エンバーは嫌悪に顔を歪め、棘から手を離して大きく後ずさった。蔑みきった声で吐き捨てる。
「お前が俺の母親? ありえない。もし本当だとしても、そんなのなら俺、血の繋がりなんてない獣のほうがマシだ。気持ち悪い」
――気持ち悪い。
エンバーがシルヴィの背に隠れるのを見た瞬間、呼吸が止まった。
視界が滲む。私にしか見えないシステムのカウントダウンが、視界の端で狂ったように点滅していた。
ふ、と笑いが漏れた。涙と血が頬を伝い、笑いで胸が震える。
もういい。争う意味なんてない。すぐに、全部から解放される。
私は息を吸い込み、よろよろと起き上がる。背を向け、巣の外――竜墜崖へ向かって、ふらつきながら歩き出した。
冷たい風が刃のように傷口を裂く。なのに、久しぶりに頭が冴えた。
背後の足音が、急に乱れる。
「アリア! 何をする気だ! 下は底なしだぞ! ふざけるにも限度がある!」両親の声が、ようやく慌てて響いた。どこか途方に暮れた響きを孕んでいる。
ケールは顔色を変え、二歩、三歩と前へ出た。
「アリア! やめろ、脅かすな! 子どもが欲しいなら……俺たちで育てればいいだろ。戻れ!」
崖っぷちに立つ。スカートの裾が暴風に煽られて踊った。
子どもなんて、もういない。竜卵は砕けた。私には、もう――。
それでもルーシェンだけは信じない。ぎり、と歯を噛みしめ、私を射抜く。
「まだこいつに騙されるのか! 自分が大事にされてるのをいいことに、また自殺で脅してるだけだ!」
「盛アリア、誰を脅してる! 度胸があるなら跳んでみろ! 百の胆力があってもお前には無理だ、さっさと戻って謝れ!」
冷気が肺へ流れ込み、体に残っていた最後の温度を奪っていく。
その瞬間だった。
脳裏に、老いて冷たい声が、定刻どおり響く。
【竜息者よ、刻は満ちた。】
私は振り返り、私を見下ろして飼い慣らしてきた人たちを見渡す。そして、ひどく惨めな笑みを引きつらせた。
「子どもを二人と……六年かけて生きたまま剥がされた竜骨でも、私の罪が償えないっていうなら……」私は小さく言う。
「この命ごと、あの子に差し出す」
次の瞬間、彼らが狂ったように私へ飛びかかってくる、その刹那。
私は両腕を広げ、仰向けに身を投げ出し――迷いなく、底なしの雲海へ墜ちていった。
