第3話 壊れた記憶
もう一本、煙草に火をつけた。紫煙がリビングの天井に向かって、ゆらりと渦を巻いて昇っていくのをぼんやりと眺める。
彼が私に触れなくなって、どれくらい経つだろう。本当の意味で触れる、ということだ。いってきますの義務的なキスや、夕食の席で私の椅子の後ろを通り過ぎる際に肩を軽く握る、といったことではなく。
半年。もしかしたら、それ以上。
きっかけは、私がクリニックの部長職を目指して猛烈に働いていた、あの過酷な時期だった。十八時間労働が常態化し、私は研究論文と複雑なトラउマ症例、そして深夜まで続く事務会議の波に溺れていた。家に帰る頃には疲れ果て、歯を磨く間も目を開けているのがやっとだった。
それでも、陸は私を待っていてくれた。オーブンの中で夕食がまだ温かいこともあった。キッチンシンクに立つ私の背後から腕を回し、首筋に唇を寄せてくる。
「今夜は無理」
私はそう呟き、身を引いた。
「もうくたくたなの。……また今度、ね?」
最初の数回、彼は理解を示してくれた。
「死ぬほど働いてるもんな。とにかく寝なよ」
だが、「また今度」は、ことごとく「今夜は絶対無理」に変わっていった。
全てが変わってしまった、あの夜のことを覚えている。私はまた彼を突き放した。興味があるふりをする気力さえなかった。陸はしばし黙り込み、それからジャケットを掴んだ。
「どこへ行くの?」
「外出る」
彼は振り返りもせずに言った。ドアが閉まる音は、壁の写真立てを揺らすほどに激しかった。
彼を見つけたのは、アパートから三ブロック先にある安酒場の『オマリーズ』だった。ウィスキーをちびちびと飲みながら、まるでそこに宇宙の真理でも映っているかのようにテレビを見つめていた。
「ごめんなさい」
私は彼の隣のスツールに滑り込みながら言った。
「冷たくしてるのはわかってる。仕事のことで、頭がいっぱいで」
その時、彼は私を見た。本当に、私を。そして私は、彼の目に今まで見たことのないものを見出した。諦め、だろうか。あるいは失望か。
「うちに帰ろう」
私は囁き、彼のももに手を伸ばした。
「埋め合わせをさせて」
私たちは玄関をくぐるのももどかしかった。陸はいつもより乱暴で、ほとんど攻撃的ですらあった。それは私を興奮させるはずなのに、かえって疎外感を覚えさせた。私はただ流れに身を任せ、それらしい声を上げただけだったが、心はデスクで待っている症例ファイルへと飛んでいた。
終わった後、陸はいつものように体を寄せ合って抱きしめることもなく、私に背を向けた。彼が眠りに落ちる前に私を胸に引き寄せなかったのは、それが初めての夜だった。
「どうかした?」
翌朝、私は尋ねた。
「いや」彼は言い、すでにスマートフォンに手を伸ばしていた。「疲れてるだけだ」
しかし、あの夜、私たちの間では何かが壊れてしまった。その時はそれが何なのか、はっきりとはわからなかった。だが、事態を先に修復しようとしたのは陸の方だった。私がこの広がり続ける距離にどう対処すべきか考えるより先に、彼はいつもの思慮深い彼に戻っていた。
「君のせいじゃない」
ある朝、朝食をとりながら彼は言った。
「俺が焦ってたんだ。仕事が落ち着いたら、休暇を取ろう。どこか暖かい場所に」
私は彼の言葉を信じた。私たちの関係は私の野心に耐えられると信じた。彼にふさわしいだけの注意を払えるようになるまで、愛がその溝を埋めてくれると信じていた。
だが、温もりは完全には戻らなかった。日曜の朝にはベッドでコーヒーを持ってきてくれるし、私の一日の出来事について尋ね、難しい患者についての愚痴も聞いてくれた。彼は変わらず小林陸であり、私が結婚した男だった。しかし、暗闇で私に手を伸ばしてくることはなくなった。週末の旅行やデートの夜を提案することもなくなった。
私たちは半年間、体を重ねていない。一度も。
そして今、彼は私のことを『新鮮味がない』と思っている。
その言葉を思い出すたび、物理的な打撃のように私を打ちのめした。新鮮味がない。長く放置されたパンのように。瑞々しさも、魅力も失ってしまったもののように。煙草を唇に運ぶ手が震え、灰が手首に落ちて肌を焼いた。痛みは鋭く、そして一瞬だった。胸の疼きに比べれば、何でもなかった。
スマートフォンが震えた。陸からだ。どこにいるのかと尋ねている。
『ちょっと外の空気を吸ってただけ。すぐ上がる』
『わかった。また寝るよ』
メッセージのやり取りさえ、事務的になっていた。私たちはいつから、会話の最後に「愛してる」と言わなくなったのだろう?







