第2章
高級料亭の隠れ座敷には、酒の香りと桜の気配が入り交じっていた。
目の前に並んだ二本の上等な清酒の空瓶を眺めながら、私は無意識に杯の縁を指でなぞる。この料亭は私の名義の店であり、藤原組の影響を受けない数少ない場所の一つだ。
松本絵里が私の向かいに座っている。彼女の鋭い双眸が、杯の縁越しに私を窺っていた。
雨森組の情報責任者である彼女の警戒心は、私の前でさえ、決して緩むことはない。
「若菜姉さん、今日は少し飲み過ぎよ」
彼女は杯を置き、単刀直入に切り出した。
「また藤原の野郎と何かあったの? 今度はどこのキャバクラの歌手? それともどこぞの組のお嬢様でも引っ掛けた?」
私は苦笑を一つこぼし、また自分の杯に酒を注ぐ。
「あいつ、今日、祝言を挙げたのよ」
その言葉が落ちた瞬間、松本絵里の表情がたちまち冷え切った。彼女の右手はすでに腰の短刀へと伸び、柄の桜紋が灯りの下で冷たい光を放っている。
「あの野郎、ちょっと灸を据えてくる」
声には隠そうともしない怒りがこもっていた。
「五年よ、五年も姉さんを何だと思ってたの? 雨森組の面子がこうも奴に踏みにじられて!」
「よせ、まだ事を構える時じゃない」
私の口調はあくまで冷淡で、藤原成俊などまるで意に介していない。
松本絵里は少し不承不承といった様子で短刀から手を離し、いくらか語気を和らげた。
「若菜姉さん、あんな男のためにこれ以上心を痛めることはないわ。私、いい男を何人か知ってる。秋倉会の若頭なんて、姉さんのことすごく買ってるし、それに……」
私は手を挙げて彼女の言葉を遮った。何かを言いかけたその時、携帯が突如として激しく震え出す。情報網からの通知が次から次へと流れ込み、わずか一分の間に、三十件以上のメッセージが画面を立て続けに点滅させた。
「何事?」
松本絵里が鋭く問う。
「何でもない」
私は携帯を置き、立ち上がって戸口へと向かった。
「裏庭で少し用事を片付けてくる」
料亭の裏庭では、雨森組の情報員の一人が地に膝をつき、額に冷や汗を浮かべていた。
私が直々に育てた情報員で、藤原組の動向を監視する任に就いていた男だ。だが今日、彼は致命的な失態を犯した——藤原成俊の祝言の情報を事前に掴めず、私が茶番を止めに出向く羽目になったのだ。今やその知らせは衆目に知れ渡り、各組は水面下で蠢き、雨森組が掌握する縄張りを虎視眈々と狙い始めている。
「己の落ち度は承知しております、雨森組長」
彼は俯いたまま、震える声で言った。
私は無表情に腰から短刀を抜き放つ。刃が月光を浴びて冷たく光った。
「掟は知っているな」
情報員が左手を差し出し、掌を地面に平らに置いた。
指の関節が白くなっているのが見える。だが、彼は引かなかった。私が刀を振り上げた、その瞬間。庭の入り口から声がした。
「久しいな。雨森組長は噂通り、本当に隠居でもしたのかと思ったぜ」
黒のオーダーメイドスーツを着こなし、襟元のボタンをいくつか緩めた秋倉拓が、桜の木の下にもたれてこちらを見ていた。月光の下、彼の腕に彫られた猛々しい龍の刺青がちらりと覗く。
私が情報員に下がるよう目配せすると、彼は大赦を得たように、素早く庭の闇へと姿を消した。
「秋倉会長、ずいぶんと良いごタイミングで」
私は短刀を収め、壁に寄りかかりながら軽薄な口調で言った。
秋倉拓は数歩近づき、灼けつくような眼差しを向ける。
「藤原組が今日、小林詩織のために盛大な祝言を挙げたと聞いた」
私は反論しなかった。
「どうやら秋倉会長は私のことを随分と気にかけてくださるようで」
「へ」
冷厳な顔立ちの男の喉から、色気のある声が漏れる。彼はネクタイをぐいと引き
「雨森組長が関わることなら、当然気にかけるさ」
私はその言葉には応えず、流し目で彼を見つめた。
「秋倉会長、今夜、私のところへいらっしゃらない?」
秋倉拓の眼差しがすっと暗くなり、月光が彼の顔に不気味な影を落とした。
今夜の酒は効きすぎた。自分が何を口走ったか自覚した途端、後悔が押し寄せる。秋倉拓は一筋縄でいく男ではないし、女に興味を示したこともない。
弁解しようとした矢先、意外にも彼は静かに頷いた。
「いいだろう」
雨森組の屋敷は、東京で最も人目を忍ぶ高級住宅街に位置する。
扉が閉まるや否や、彼は私を襖に押し付け、口づけてきた。その動きは強引でありながら、どこか見透かしがたい優しさを帯びていた。
「雨森若菜、噛みすぎだ。俺の身体にも傷跡を残したいのか?」
彼は低く文句を言ったが、その口元には笑みが浮かんでいた。
私は彼のスーツの襟を掴み、掠れた声で言う。
「秋倉会長、こういう時は黙っていてくれないかしら。あなたがすべきことは、私に全てを忘れさせることよ」
月光が格子窓から差し込み、絡み合う私たちの身体にまだらな光の影を落とす。私たちは一睡もせず、最も原始的な方法で互いの感情と欲望をぶつけ合った。
早朝、ベルの音が私を束の間の眠りから引き剥がした。
秋倉拓が手を伸ばし、乱れた布団の中から私の携帯を探し当ててくれる。画面に表示された名を目にした途端、彼の眼光が俄に鋭くなった。
「藤原成俊」
彼はその名を、明らかな敵意を込めて口にした。
私がビデオ通話に出ると、すぐに藤原成俊の顔が画面に映し出された。彼は険しい顔つきで、開口一番こう問い質してきた。
「お前、うちの系列の料亭に人をやって、小林詩織に関するデマを流させたな?」
「やってないわ」
私は掠れた声で答えた。
一晩中馬鹿騒ぎをしたせいで、思いのほか声が嗄れてしまっている。
藤原成俊は眉をひそめ、ふと訝しんだ。
「その声はどうした? 誰かと一緒か?」
私は冷静に画面を見据える。
「藤原組長、私たち、もう何の関係もないはずよ」
そう言って、私は容赦なく通話を切った。
藤原組の会所内では、藤原成俊の顔色が鉄のように沈んでいた。周りの側近たちが恐る恐る彼を慰めている。
「若、ご心配なく。雨森組長はただ芝居を打っているだけです。若を揺さぶろうとしているんですよ」
「そうですとも。あんな古い手は何度も見てきました。他の組の人間といるふりをして、若の気を引きたいだけでしょう」
その言葉を聞いて、藤原成俊の表情がいくらか和らいだ。
「それもそうか。あいつは昔からああだ」
