第1章
「颯真、お前、水無月瑠璃のために志望校変えたってマジ?」
更衣室のドアが半開きになっていて、私が押し開けようとした矢先、中から颯真の声が漏れ聞こえてきた。
「ああ、変えた」
颯真の声は軽やかだった。
「大阪総合大学。瑠璃と同じ大学だ」
「はあ!? お前、写真の専門学校行くんじゃなかったのかよ? 花梨と約束してただろ」
「瑠璃が、一人で大阪行くのは心細いって言うからさ」
彼の声色は、水が滴るほどに甘く優しい。
「じゃあ花梨はどうすんだよ? ガキの頃からの約束なんだろ」
写真の専門学校に一緒に行くこと。それは、学校に上がりたての頃に二人で交わした目標だった。
志望校を決める二日間だって、両家揃ってあんなに話し合って、厳粛な気持ちで記入したのに。
それなのに、彼は突然変えてしまったのだ。
私に一言の相談もなく。
「あいつは俺に合わせて変えるさ」
颯真は笑った。その口調には確信しか満ちていない。
「あいつ、間違いがないか毎日八百回も志望票確認してんじゃねえの。俺と離れるのが怖くてさ。適当に理由つければ、勝手に志望校変えてついてくるって」
胸をハンマーで殴られたような衝撃に、私は立っていられないほどの痛みを感じた。
「ギャハハ、確かにな。金魚のフンみたいに、お前の行くところならどこへでもついて来そうだしな」
「『貢ぐ君』だもんな。四六時中べったりで、見ててウザいし」
「やっぱ瑠璃ちゃんこそ真の女神だぜ! 優しくて美人で品があって、カメラ抱えた薄汚いガリ勉女より百倍マシだわ」
「颯真、お前もやっと目が覚めたか。瑠璃ちゃんみたいな美女こそお前にふさわしいって」
爪が掌に食い込み、その痛みが私の意識を保たせていた。中へ飛び込んで問い詰めたい。けれど喉が詰まったようで、声が出ない。
「よしなよ、もう」
颯真は制したが、その声に不快感は微塵もなく、むしろ隠しきれない得意げな色が混じっていた。
「俺は先に行くわ。この後、瑠璃とオープニングダンス踊らなきゃなんねーし」
十八歳の誕生日、颯真に誕生日の願い事を聞かれた時、私は随分と悩んだ。キスしてほしいとか、彼女にしてほしいとか。でも結局、口にしたのは「一緒にダンスを踊りたい」という言葉だけだった。
卒業式の、オープニングダンスを。
私はただ、颯真がホールの扉を押し開けるのを呆然と見送った。
ダンスフロアの中央、颯真が片膝をつき、瑠璃がその掌に手を重ねる。旋回と共にスカートの裾が花開いた。
音楽が流れ出し、彼が彼女の華奢な腰を抱き寄せる。その動作はあくまで優しく、慎重だ。瑠璃は恥じらうように彼の肩に頭をもたせかけ、こぼれ落ちた長い髪が彼の胸にかかる。
彼はうつむき、その唇は彼女の頭頂に触れんばかりだ。
「うわ、あの二人超お似合い!」
「神谷の奴、やっと目ぇ覚ましたか!」
「瑠璃先輩マジ綺麗。橘花梨なんかよりずっといいじゃん!」
私は陰に立ち、スポットライトを浴びる美しい二人を見つめていた。
颯真の笑顔はあんなにも晴れやかで、眼差しはあんなにも優しい。私の知らない顔だった。
そうか、彼はあんなふうに笑うのか。
ただ、私に対してではないだけで。
私への十八歳のプレゼントだと言ったあの約束は、今、他の人のものになった。
私はきびすを返し、逃げるようにその場を離れた。ヒールが床を叩く音が、空虚な反響となって心臓を打つ。
部屋のドアを閉めた瞬間、堪え続けていた涙がついに決壊した。
頭の中で、颯真の言葉が一言一句リフレインする。
本当はまだ、納得できていなかった。
どうして彼は、子供の頃から憧れていた写真への道を、土壇場で変えてしまったのか。
何年も二人で励まし合い、やっとの思いで志望学科の合格圏内まで持っていったのに。
今夜パーティー会場に入る一秒前まで、私は馬鹿みたいに、二人で夢を叶える未来に胸を躍らせていた。
けれど、想像もしなかった。
私が全力を尽くして手繰り寄せた二人の未来を、彼が他人の一言であっさり捨ててしまうなんて。
百歩譲って変えるとしても、どうして私に一言告げることさえできなかったの?
そんなに私につきまとわれるのが怖かった?
叶えると約束した誕生日の願いも、十八歳のプレゼントも、一体何だったの?
あのほろ酔い気分の気まぐれを、私が勝手に本気だと勘違いしただけ?
心の中で、何かの糸がぷつりと切れた音がした。
卓上のライトが薄暗く灯る中、志望票が机に広げられている。
誰もが、颯真自身さえも、私がずっと彼と一緒にいて、絶対に離れないと思い込んでいる。
けれど誰も知らない。彼への依存以外に、私がその学校に行きたい本当の理由があることを。
颯真とは関係なく。
たとえ彼が行かなくとも、私一人でも行くつもりだった。
私は、先ほど無意識に立ち上げていたパソコンの電源を落とした。
あの志望校登録システムなんて、もう二度と見たくない。
彼のために自分の志望を変えるつもりなんて、これっぽっちもなかった。
彼が学内一の美女のために海を越え山を越えるなら、私にだって飛びたい空がある。
互いに行く道が違うのなら、もう過去を問う必要もない。
そう割り切ってしまえば、視界が一気に開けた気がした。
なんてことはない。
人は皆、独りで大人になることを学ばなければならないのだから。
冷水で顔を叩いて落ち着かせたところで、颯真からビデオ通話がかかってきた。
頭は躊躇していたが、指が条件反射で応答ボタンを押してしまう。
「花梨、まだ着かねーのか? みんな揃ってんのに、お前なんでそんなグズなんだよ」
だが、もう行く気はなかった。
「私は行かない……」
言い終わらないうちに、颯真の隣から、わざとらしく猫なで声が聞こえてきた。
「颯真くん、花梨ちゃんが来ないのって、私と踊ったの怒ってるからかなぁ?」
颯真が答えるより早く、周りの男子たちが必死にフォローを入れる。
「そんなわけあるかよ、学内一の美女がお越しくださったんだ、俺らとしては願ったり叶ったりだぜ」
「花梨は心が狭いところあるからな。女子が颯真に近づくとすぐ騒ぐし、いつものことだって」
瑠璃の横顔が、不意に颯真の画面に見切れた。彼との距離は極めて近い。
彼女は物分かりの良いふりをして、ウィスパーボイスで彼に囁いた。
「颯真くん、やっぱり私、先に帰るね。君を困らせたくないし……」
颯真の顔色が即座に変わった。彼は振り返り、彼女の手を引き留める。
「瑠璃、帰らなくていい。花梨の奴、今日どうかしちまったんだろ。来たくないなら来なきゃいいさ。もう待たなくていい、メシにするぞ」
颯真は私に冷たく言い放つと、返事も待たずに通話を切った。
私は暗転した画面を見つめながら、胸の奥でふつふつと怒りが湧き上がるのを感じていた。
物心ついてから、彼に電話を切られたのはこれが初めてだった。
またしても、瑠璃のために。
