第2章
志望校の申請を提出してから、もう三日が過ぎた。
颯真から鬼のようにメッセージが届いているが、私は一つも返していない。
「花梨、いい度胸だな。俺の電話を切って、メッセージも無視かよ」
実は瑠璃が転校してきてから、こういうことは日常茶飯事だった。
彼女はいつもか弱く、守ってあげなければならないような雰囲気を醸し出していて、颯真は彼女のためなら何度も特例を作った。
写真部は新入部員を受け入れていないのに、特例で入部させたり。
部活は休んではいけない決まりなのに、彼女が体調不良だと言えばすぐに許可したり。
瑠璃は毎日完璧に装っていて、薄化粧が彼女の儚げで無垢な印象を際立たせている。
一方、受験勉強の重圧に追われる私は身なりに構う時間もなく、分厚い眼鏡にひっつめ髪。瑠璃と比べれば、まるでピエロだ。
私は瑠璃のことで何度も颯真と喧嘩し、数え切れないほど冷戦状態になった。
そのたびに彼は私をなだめる。
「瑠璃とはただのクラスメイトだろ。あいつの家、大変なんだよ。俺はただ助けてやりたいだけだ。お前、変な勘繰りすんなって」
実家が破産したばかりだという瑠璃の可哀想な姿を見て、私は彼を信じることを選んでいた。
でも今思えば、私は本当に馬鹿だった。
志望校提出の最終日。分厚い眼鏡とポニーテールといういつもの姿で教室に入ると、私の席に瑠璃が座っていた。
彼女は弱々しく颯真の肩に寄りかかり、志望票を手に目を赤くしている。
「颯真くん……この学科の要件、本当に難しくてよくわかんないよぉ。間違えて書いちゃいそうで怖くて……」
「大丈夫だって。わからないところがあれば俺が見てやるから」
颯真の声は呆れるほど優しく、彼女の肩をポンポンと慰めるように叩いている。
あんな優しさ、私には一度だって向けてくれたことがないのに。
私は教室の入り口で、鞄のストラップを強く握りしめた。
顔を上げた颯真は私を見るなり、すっと表情を冷たくした。
「あ、来たのか」
それだけ。言い訳も、席を譲る素振りもなく、視線を向けることすら面倒だと言わんばかりだ。
私は踵を返し、親友の美咲の席へ向かい、その隣に腰を下ろした。
「また演技しちゃって」
美咲は声を潜め、憤慨した様子で言った。
「颯真も颯真よ、骨抜きにされちゃってさ。昨日は数学の補習をしてあげてたのに、今日は志望票の手助け? 彼女、自分で読むこともできないわけ?」
私は何も言わず、自分の志望票を広げて最後の確認をした。
『原宿写真専門学校 写真芸術科』
これはパパとの約束であり、私自身の夢だ。決して、颯真のためなんかじゃない。
「みんな、聞け」
担任が教室に入ってきて、眼鏡の位置を直した。
「今日は専門学校の願書提出の最終期限だ。必ずよく確認してから提出するように。お前たちの未来に関わることだ、決して疎かにしないように」
教室の中に、紙をめくる衣擦れの音が響く。
提出しようと準備したその時、颯真が突然立ち上がり、私の目の前まで歩いてきた。
「花梨、ちょっと来い」
拒否権のない口調だった。
私は彼について廊下の突き当たりまで行き、窓際に立った。
「毎回毎回、そうやって喧嘩して冷戦して……お前、ガキかよ?」
颯真は眉をひそめて私を見下ろし、苛立ちを隠そうともせずに言った。
「瑠璃も気にしてたぞ、花梨ちゃんに嫌われてるのかなって。もう進学だってのに、いつまで心が狭いんだ?」
私は顔を上げて彼を見た。
窓から差し込む陽の光が、彼の顔に明暗のコントラストを描いている。
十数年、毎日のように見てきた顔。小学校から高校まで、他人から家族のような存在へ。
それなのに今は、恐ろしいほど他人に思える。
「別に、嫌ってなんかいない」
私は平静を装って言った。
「じゃあ、俺を着信拒否にしたのは何なんだよ」
颯真が一歩踏み出す。
「昨日俺が何回かけたと思ってんだ?」
「出たくなかっただけ」
「花梨!」
彼は声を荒げた。
「いい加減、わがまま言うなよ。俺は瑠璃を少し手伝ってやってるだけだろ。あいつの家は大変なんだ。一人で大阪に来て苦労してるのに、俺は……」
「颯真くん!」
教室のドアから瑠璃の声がした。
彼女は涙を浮かべ、弱々しくドア枠に手を添えている。守ってあげたくなるような、可憐な姿だ。
「颯真くん、このデジタルマーケティング科の要件がどうしてもわからなくて……。書き間違えたらどうしようって怖くってぇ、もう一回だけ見てくれない?」
颯真は私を一瞥すると、瑠璃の方へ向き直った。
「わかった、今見てやるよ」
私はその場に立ち尽くし、彼が優しく瑠璃の肩を抱いて教室へ戻っていくのを見送った。
その背中は、昨夜ダンスホールで見かけたものと全く同じだった。
「ほんと、典型的なぶりっ子ね。悲劇のヒロイン気取りが上手すぎて」
いつの間にか美咲が隣に来ていた。
「あんた、大丈夫?」
「平気だよ」
私は口角を無理やり上げた。
「行こう、提出しなきゃ」
夜になり、美咲に連れられて新しくできたカラオケボックスへ行った。
クラスメイトが十人以上集まっている。
「ちょっとお手洗い」
私は美咲に小声で伝え、部屋を出た。
廊下は静かで、各個室からの歌声が漏れ聞こえるだけだ。トイレのドアを押そうとしたその時、角の向こうから颯真の声が聞こえてきた。
「なぁ、花梨のやつ、マジで志望校変えないつもりかな?」
私の足が止まった。
「まさか」
別の男子生徒の声だ。
「あいつの性格だぜ? お前に着いていく以外どうすんだよ。絶対もう書き直してるって」
「だよな」
颯真が笑った。
「あいつ、昔から俺の後ろをついて回るしか能がないからな。今回だって同じだろ」
「お前も隅に置けないねぇ。どっちも手放したくないとは」
「手放したくないってのとは違う」
颯真の声に苛立ちが混じる。
「花梨とは幼馴染としての情があるだけだ。瑠璃は違う。あいつは……」
「颯真くん!」
突然瑠璃が現れ、颯真の袖を引いた。
「颯真くん、みんなが歌おうって呼んでるよ」
「ああ、わかった。戻ろう」
颯真はすぐに彼女の肩を抱き寄せた。
立ち去ろうとした私は、瑠璃に弱々しく引き止められた。
「花梨ちゃん」
彼女は潤んだ瞳で私を見つめ、深々と頭を下げようとする。
「私が悪いの。私のこと嫌いなのはわかってるけど、謝らせて? ごめんなさい、本当にごめんなさい……」
「あいつがここまでしてるのに、まだ何か不満か?」
颯真が即座に私を責め立てる。
「瑠璃、お前が謝る必要なんてない。こいつの心が狭いだけなんだ」
彼は瑠璃に向き直ると、背筋が凍るほど優しい声で言った。
「これからは同じ学校になるんだし、瑠璃は女の子一人で大変なんだから、俺がちゃんと面倒見てやるよ」
心の中で、何かの糸がぷつりと切れた音がした。
「そんなに楚々とした清純派のお世話がお好きなら、二人で勝手に愛を育めばいいわ」
私は瑠璃の手を振り払い、背を向けた。
「花梨、いい加減にしろ!」
颯真の冷たい警告が背中に刺さる。
「瑠璃は何も悪くないだろ!」
