第2章 裏切りの代償
朝の光が学院の窓から教室に差し込む。アリサが王族魔法学園へと足を踏み入れた瞬間、背筋に刺すような寒気が走った。
アリサの視線が教室の奥へと向かう。そこは彼女とエリモン王子の指定席だった——エリモンは、先生の目を盗んでサボれるからと、最後列に座ることを譲らなかった。
今、そこには二つの人影があった。
エリモンの金髪が朝日にきらめき、そのマントは隣に座る銀髪の少女の肩にかかっている。
ヴィクトリア・ブライトン——公爵の娘にして、エリモンの婚約者——が、アリサの席に座っていた。
二人は頭を寄せ合い、一つの呪文の巻物を覗き込んでいる。
『うわ!王子と公爵令嬢、お似合いすぎ!これぞゲームで設定されたゴールデンカップル!』
『悪役令嬢のあの顔見てみろよ、これが噂の幼馴染が天啓に負けるってやつ?ウケる!』
アリサの目の前を、コメントが好き勝手に流れていく。彼女は拳を握りしめ、爪が掌に食い込んだ。深く息を吸い、胸を張って席へと歩み寄る。
「アリサ、おはよう」エリモンがようやく彼女の存在に気づき、どこか気まずそうに言った。「今朝は約束を破るつもりはなかったんだ。ヴィクトリアが急に体調を崩してしまって、私が迎えに行ったんだ」
『本当はヴィクトリアが一時間も前に王子に迎えに来るよう手紙を送って、体調不良を口実にしたくせに』
『ちぇっ、こんな見え透いた嘘、悪役令嬢はまだ信じるのか?』
アリサは軽く頷き、ただ平坦に「ええ」とだけ返した。
エリモンはアリサのあまりの冷淡さが予想外だったらしく、眉をわずかにひそめた。「アリサ、今日は一時的にヴィクトリアの席に座ってくれないか?ヴィクトリアは魔力の波が激しくて、私がそばにいてやる必要があるんだ」
アリサはヴィクトリアの目をちらりと見た。そこには隠しきれない得意げな色が浮かんでいる。
「もちろんですわ、殿下」アリサの口調は平穏だったが、その眼差しは霜のように冷たかった。
ヴィクトリアがポケットから金色の光を放つ薬瓶を取り出した。「アリサ、これはエリモンが私のために持ってきてくれた回復薬よ。あなたの席を使ったお詫びに、どうぞ使って」
ヴィクトリアが手を差し出した途端、エリモンがそれを遮った。「ヴィクトリア、それはお前のために用意したものだ。魔力が不安定なんだから、飲んだ方がいい。アリサにあげる必要はない、彼女にはいらないだろう」
ヴィクトリアは手を引っ込め、少し申し訳なさそうな表情を浮かべたが、その瞳の奥には狡猾な光が一瞬きらめいた。「エリモン、本当に優しいのね」
アリサは彼らの傍若無人なやり取りを眺め、ふと口を開いた。「理論の授業が終わったら、先生に席替えを申請しますわ。これからはお二人で座ってください」
教室は一瞬、静寂に包まれた。
ヴィクトリの瞳に驚喜の色がよぎったが、すぐにそれを隠して言った。「アリサ、私たちのためにそんな——」
「本当か!」エリモンが彼女の言葉を遮る。その表情は驚きの中に、何とも言えない複雑な感情が混じっていた。「アリサ、本気で言っているのか?」
「ええ、もちろん」アリサは微笑んだ。「お二人は婚約されているのですから、私がお邪魔すべきではありませんわ」
『悪役令嬢が席を譲る?元のシナリオと違う!』
『アリサ、ようやく目が覚めたか!もう犬はやめるんだな!』
アリサはヴィクトリアの元々の席へと向き直った。
授業終了の鐘が鳴ると、アリサはすぐに立ち上がり、先生に席の変更を願い出た。
彼女が元の席に戻り、魔導器やノートを片付けていると、エリモンが背後から近づいてきた。「本当に俺と隣で座る機会を放棄するのか?」
アリサは振り向きもせずに言った。「殿下、あなたには私よりも、婚約者殿が隣にいる方がお似合いかと」
「アリサ!」エリモンが声を荒げた。「意地を張っているのか?昨夜お前を引き止められず、一人で帰らせてしまったこと、私がどれだけ心配したか分かっているのか?」
アリサはようやく振り返り、無表情に告げた。「殿下は昨夜、さぞ私の魔力が必要だったのでしょうね?残念ながら、私の魔力を犠牲にして殿下をお救いすることはできませんでしたわ」
エリモンの顔が険しくなる。「どういう意味だ?」
「別に。ただ、これ以上殿下とヴィクトリア様の生活の邪魔をしたくないだけです」アリサは荷物を片付け続け、ふと指が止まった。「私のペンは?」
彼女は引き出しも鞄の中もくまなく探したが、あの星の光の宝石がはめ込まれたペンは影も形もなかった。
「あの魔力を増幅できるペンのことか?」エリモンの口調は軽かった。「ヴィクトリアが欲しいと言ったから、くれてやった」
アリサの瞳孔が急激に収縮し、その怒りで周囲の燭台の火が激しく揺らめいた。「私のペンを、勝手に人に?」
「なんだ?たかがペン一本だろう」エリモンは苛立ったように叫んだ。「金貨がいくら欲しいか言え、くれてやる!そんなにケチケチして、鬱陶しいぞ!」
アリサの脳裏に、無数の記憶の断片が蘇る——
七歳の時、祖母がこの魔導器を彼女の手に握らせてくれた。
「アリサ、このペンには私の生涯の魔法の神髄が込められている。持ち主の成長と共に強くなるのよ」
祖母は王国のかつての首席魔法師であり、ロシエル家で唯一、魔法貴族と肩を並べられた伝説の人物だった。
九歳の時、祖母が亡くなり、アリサは一晩中泣き明かした。そんな彼女のそばにいて、優しく慰めてくれたのがエリモンだった。「お祖母様の魂は星になったんだ。夜空を見上げれば、いつでも彼女を感じられる」
十歳の誕生日、エリモンは星の光で満たされたクリスタルボールをくれた。「この中に星がある。君のお祖母様が家に帰ってきたみたいだろう」
それなのに今、彼は祖母の形見をいとも容易く人にあげてしまったというのか?
アリサの瞳から、最後の温もりが消え失せた。
「私のペンは金貨で計れるものではありません」彼女の声は低く、危険な響きを帯びていた。「あれは私の祖母——元王国首席魔法師の形見です」
エリモンの顔色が変わった。「知らなかった——」
「ご存じなかった?」アリサは冷笑した。「十歳の時、私を慰めるために星の光のクリスタルボールをくださったのはどなたです?祖母の魂が星になったと仰ったのは?それを今さら、ご存じなかったと?」
ヴィクトリアが優雅に歩み寄ってくる。ペン先がきらりと星の光を放った。「アリサ、誤解だというのなら、あなたが私にくれたプレゼントということにしてはどうかしら?どうせ私たちは、もうすぐ本当の姉妹になるのだから」
『公爵令嬢、ふてぶてしいにも程がある!』
『一万ゴールド賭ける、悪役令嬢がブチ切れるぞ!』
アリサの氷のような視線が、ヴィクトリアの整った顔を射抜いた。「許可なく他人の魔導器を取ることは、法では窃盗にあたります。公爵令嬢として、その法規をご存じないわけではありませんよね?」
ヴィクトリアの顔色が一変し、紫色の魔法の火花が彼女の周りではじけた。
「よくも私を泥棒呼ばわりしたわね?」ヴィクトリアの声は震え、両手であの魔導器をきつく握りしめている。「私はブライトン公爵の娘よ!」
アリサは退かずに一歩進み出て、手を差し出した。「では、ブライトンお嬢様。私のペンをお返しください。さもなくば、先生にこの件を報告し、裁定を仰ぐしかありません」
「もういい!」エリモンが鋭く制した。「アリサ、やりすぎだ!ヴィクトリアは私の婚約者だぞ。彼女をここまで追い詰めて、王室の権威に楯突くつもりか?」
アリサの眼差しは刃のように冷たく、エリモンを真っ直ぐに見据えた。「殿下、学院では何人たりとも他人の魔導器を侵害してはならないと明記されています。たとえ殿下であろうと、校則を超えることは許されません」
「貴様!」エリモンは怒りで顔を青くした。「アリサ、お前は変わった!」
「はい、変わりました」アリサは静かに言った。「もう、あなたのために全てを犠牲にする愚かな女ではありません」
ヴィクトリアはアリサを憎々しげに睨みつけ、ついに魔導器を机に叩きつけた。「持っていきなさいよ!ただのペンじゃない、別に欲しくなんかないわ!」
アリサは魔導器を取り戻し、指先に馴染みのある星の光の力が流れるのを感じた。顔を上げると、教室中の生徒がこの争いを見守っていることに気づく。
『この展開、ますます面白くなってきた!悪役令嬢が反撃したぞ!』
『公爵令嬢が負けた哈哈哈!でも王子を怒らせたアリサ、この後ひどい目に遭うんじゃないか?』
『待って、もしかしてアリサは本当に運命を変えられる?』
アリサは魔導器をしまい、残りの荷物を静かに片付けた。彼女の顔にはもはや何の感情の揺らぎも見られず、ただ瞳の奥で冷たい炎の塊が燃えているだけだった。
アリサが教室の戸口へ向かうと、エリモンが背後から叫んだ。「アリサ!私への恩を忘れるな!我が王室の庇護がなければ、お前の父親の子爵の称号などとっくに剥奪されていたんだぞ!」
アリサは足を止めたが、振り返らなかった。「殿下、我が家が忠誠を誓うのは王国であり、あなた個人ではありません。その二つを混同なさらないでください」
そう言い残し、アリサは振り向きもせずに教室を出ていった。あとには、顔を青ざめさせたエリモンと、怒りに震えるヴィクトリアが残された。
コメントが乱れ飛ぶ。
『アリサ、カッコよすぎ!これこそ私が見たかった悪役令嬢!』
『でもこんなことして、魔力暴走で死ぬ運命にもっと早く近づくんじゃない?』
『シナリオが完全に変わった!本来なら、こっそり王子に魔力を送って、公爵令嬢に軽くあしらわれるはずなのに!』
アリサは実践授業の会場へと真っ直ぐ向かった。本当の戦いは、まだ始まったばかりだと知っていたからだ。






