第4章
視界がぐらりと傾き、次の瞬間、俺の身体は砂に叩きつけられていた。
「晴貴!」
姫子の悲鳴が鼓膜を裂く。彼女は砂に膝をつき、俺を覗き込んだ。
「どうしたの? 誰か、早く医者を!」
俺は強引に身体を起こすと、足元もおぼつかないまま姫子を突き飛ばし、停泊しているボートへと駆け出した。
「千佐、待ってくれ!」
喉から絞り出した声は、ひどく掠れて割れていた。
「死ぬな……死ぬなんて、許さない……!」
心臓が脈打つたび、肋骨の間をナイフで抉られるような激痛が走る。
俺は船縁を鷲掴みにした。力が入りすぎた拳の皮が裂け、血が滲み出す。
どうして、あいつを置いてきてしまったんだ。
なぜ俺は、こんな忌々しい結婚式になど承諾した?
姫子に戸籍を与える——そんなことのために奔走していたなんて。あんな女に、その資格などありはしないのに——。
千佐はたった一人、手術台の上にいる。
孤独なまま、死と向き合っているのだ。
深夜を回った頃、飛行機は滑走路に降り立った。
俺は到着ロビーを抜け、病院の受付へと全速力で走る。
「野宮千佐。彼女はどこだ」
看護師が顔を上げ、その表情がふっと強張る。
「あなたは——」
「夫だ!」
看護師の指がキーボードを叩き、そして止まった。
「新城様……野宮様の御遺体は、すでにご家族に引き渡されました」
思考が凍りついた。
その時、野宮寛貴が姿を現した。
「遅かったな」
冷徹な声だった。俺は彼を凝視する。
お前の妹の身体はどこだ。
「彼女の遺言通りだ」寛貴の声は淡々としていた。
「遺体は、すでに荼毘に付した」
「嘘だ」
「嘘をついてどうなる? 葬式はいらない、遺体も残さないでくれと、あいつがそう言ったんだ。だから俺はその通りにした」
「ありえない。千佐がそんなこと——」
拳を握りしめる。爪が肉に食い込んだ。
寛貴は冷ややかに続けた。
「あいつが手術台にいた時、お前はどこにいた? 今さら善人ぶって、ここに来るな」
言い捨てると、彼は廊下の奥へと消えていった。
俺は無人の廊下に立ち尽くし、呆然とするしかなかった。
執務室から、カルテを手にした主治医が出てくる。
「新城様、手術の記録ですが——」
「我々も手を尽くしました」医師は慎重に言葉を選んだ。「大量出血……それに伴う心停止で……」
俺は医師の胸倉を掴み上げ、壁に叩きつけた。
「黙れ! あいつは死んでない!」
「新城様、落ち着いてください——」
「死んでないと言っているんだ!」
俺の絶叫が廊下に反響する。
「あいつは言ったんだ。俺の帰りを待っていると!」
警備員が二人がかりで駆けつけ、俺を引き剥がそうとする。俺は暴れ、怒りで全身を震わせながら、荒い息を吐いた。
「ふざけるな!」
脳裏に焼き付いて離れない光景がある。手術台に横たわる千佐。蒼白な顔を照らす無機質なライト。心拍モニターが告げる、直線の警告音。
その時、俺は——俺は別の女との結婚式で、陽光の下、「誓います」などとほざいていたのだ。
胃の腑が激しく波打ち、俺はその場でえずいた。吐き気が内側から俺を引き裂こうとしていた。
夜が明ける前に、俺は自宅に戻った。
主のいない寝室に入ると、サイドテーブルの上に一枚のDVDが置かれていた。
俺たちの、結婚式のビデオだ。
画面にはまず教会の全景が映り、やがてカメラは千佐へと寄っていく。
純白のドレスに身を包み、ブーケを手にした彼女が、レンズに向かって微笑んでいる。
その笑顔は——あまりにも無垢で、あでやかで、無防備だった。
『新城晴貴さん』
彼女はカメラに向かって語りかける。その瞳は星のように輝いていた。
『愛しています。これからも、ずっと』
胸が張り裂けそうな激痛が走った。
あの頃、彼女はまだ俺を信じていた。
俺たちの未来を、疑いもしなかった。
執事がドアをノックし、たった今届いたという小包を差し出した。
差出人は——千佐。
数秒間、俺は石になったかのように動けなかった。心臓が止まった錯覚すら覚えた。
俺は恐る恐る、壊れ物を扱うように震える手で包みを開けた。
中に入っていたのは、二つだけ。
元のケースに丁寧に収められた、彼女の結婚指輪。
そして、小型のボイスレコーダー。
再生ボタンを押す。
姫子の声が、部屋の空気を震わせた。
『子供ができたのよ。当然、彼は私の方を優先するわ。あなたが流産したあの子供のことなんて、彼にとって何の意味があると思う? 彼にとってはただの“不運”であって、“かけがえのないもの”なんかじゃないの』
『彼は今、私たちの結婚式の準備中よ。モルディブでね。もうすぐあなたにも電話がかかってくるはずだわ』
バキッ、と乾いた音がして、俺の指の中でレコーダーが砕け散った。
真実が銃弾のように俺を撃ち抜いた。
俺は目の前の指輪を睨みつけた。
俺は車を飛ばし、姫子のマンションへ向かった。
彼女がドアを開けた瞬間、一言も発さずに胸倉を掴み、壁に叩きつけた。
「言ったはずだ」
俺は獣のような唸り声を上げた。
「何を手に入れてもいい——ただし、千佐にだけは俺たちのことを悟らせるなと!」
「わ……私は、言ってない!」
彼女は唇を震わせた。
俺は録音データを再生し、彼女の頬を力任せに張り飛ばした。
彼女は腫れ上がった頬を押さえて泣き叫び、やがてその声は怒号へと変わった。
「晴貴、私はずっとあの女の影で生きてきたのよ! あなたの子を宿しても、日陰の身のままで——なのに、あの女のために私を殴るの!?」
彼女は半狂乱で喚き散らした。
「全部あなたのせいよ! あなたのせいだわ! あいつが死んだのは、あなたが殺したようなものよ!」
「そもそも私を正妻にする気なんてなかったくせに! あいつなんて、あなたにとってお荷物だったじゃない——今さら悲劇の主人公ぶらないでよ!」
彼女の言葉が毒のように突き刺さる。
お前のせいだ。
全部、お前のせいだ。
ふと——俺の口元が歪んだ。
笑いが、込み上げてきたのだ。
「死んでない。あいつが死ぬはずがない」
俺は誰よりも千佐を知っている。
あいつは、俺のために自分の命を捨てたりはしない。
だが——去ることは、あり得る。
俺の手の届かない場所へ、身を隠すことは。
なぜなら、彼女もまた俺を知っているからだ。
俺が絶対に、彼女を手放さない男だと知っているからだ。
だから彼女は、「死」を利用して逃げたのだ。
俺は部下の鈴木に電話をかけた。
「彼女を探し出せ。兄の野宮寛貴もだ。手術当日、彼女と接触した人間を一人残らず洗え」
「金はいくらかかっても構わん」
世界のどこかで、あいつはまだ呼吸をしている。
何としてでも、探し出す。
地獄の底まで追いかけてでも、必ず俺の元へ連れ戻してやる。
