第5章

 「野宮千佐」という名は、もうこの世に存在しない。兄が用意してくれたパスポートと新しい身分を携え、私はこの人里離れた静かな山間の町へと逃げ延びた。

 当時の住処は、半ば廃墟と化した木造小屋だった。

 毎晩、瞼を閉じると、晴貴の気配が夢を侵食してくる。彼は私を抱きしめ、頬を包み込み、額に口づけを落とす。あの、詐欺のように甘ったるい声で繰り返すのだ。

「千佐、お前は俺のものだ」

「俺から離れるな」

 俺は必ずお前を見つけ出す。

 私はいつも悲鳴を上げそうになって目を覚ます。全身が冷や汗で濡れそぼり、息ができない。あの結婚生活という名の暗い影が、私を深淵へと引きずり込んでいくようだった...

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