第1章

アイリス視点

「お前、アイリスを振るためだけに数ヶ月もいじめられっ子を演じてたのか? えげつねえな!」

 アメフト部の部室から、チームメイトたちの下卑た笑い声が漏れてくる。

 州立大学の合格通知を握りしめた手が、ドアの外で凍りついた。びっしょりと手汗をかいた掌の中で、紙は無惨に皺くちゃになっていた。

「仕方ないだろ」リアムが得意げに言う。「あいつ、四六時中ベタベタしてきて鬱陶しいんだよ。どうにかして逃げる口実が必要だったんだ」

 心臓を、誰かに力任せに鷲掴みにされたようだった。

 三ヶ月前。幼馴染であり、ずっと想いを寄せていたリアムは、泣きながら私に訴えた。部室で冷水を浴びせられ、練習中にわざと突き飛ばされ、部活の打ち上げでは胃出血するまで酒を強要されたと。

「アイリス、俺、もうイェールなんて行けないよ」あの夜、彼は震えながら私に抱きついた。「義兄の仲間があそこにいるんだ。隠し子の俺なんて、あいつらにとっちゃいいカモだ。潰されちまうよ」

 胸が張り裂けそうだった。私は彼の手を取り、決断したのだ。「なら、イェールはやめましょう。私が一緒に州立大学へ行くわ」

「で、本当はどこに行くつもりなんだ?」チームメイトが尋ねる。

「イェールさ」リアムの声が弾む。「エミリーと一緒にな。アイリスが推薦枠を辞退したら、親父に頼んでその枠にエミリーをねじ込んでもらう。そうすりゃ、俺たち二人とも晴れてイェール生だ」

 エミリー・ホワイト——あの楚々とした、庶民出身の転校生。

 ただの友達だと思っていた。まさか彼女こそが本命で、私がただの邪魔者だったなんて。

「エミリーのためにそこまですんのかよ? 純愛だな、おい!」誰かが囃し立てる。

「当たり前だ」リアムの声が、急に優しさを帯びる。「エミリーは優しくて思いやりがある。アイリスみたいに高圧的じゃない。それに、エミリーは俺を立ててくれるし、説教もしない。アイリスの奴、自分をヴァンダービルト家のお嬢様だと思ってやがるから、いちいち指図してきて鼻につくんだよ」

 喉を締め上げられたようで、息ができない。

「けどよ、アイリスはお前のためにイェールを蹴ったんだぜ?」別の部員が言う。「ヴァンダービルト家は三代続くイェールの名門だろ。勘当もんだぞ」

「あいつが勝手に尽くしてきただけだ」リアムは鼻で笑った。「頼んだ覚えはないね。それに、あの枠は元々譲るべきだったんだ。エミリーの家は貧しい。アイビーリーグに入らなきゃ人生を変えられないんだよ。それに比べてアイリスはどうだ? 大学なんか行かなくても、どうせヴァンダービルトの遺産がある。何の心配もいらないだろ」

 爪が掌に食い込む。その鋭い痛みが、辛うじて私の意識を繋ぎ止めていた。

「もしバレたらどうする?」

 リアムは嘲笑う。「バレたところで、どうってことないさ。あいつは絶対俺を許す。いつだってそうだった。駐車場の件、覚えてるか? 上級生三人に囲まれた時、あいつ、俺を庇って前に飛び出してきたんだ。鼻血出して、血まみれになっても一歩も引かなかった。そんな女が、俺から離れられると思うか?」

 耳障りな爆笑が部室を揺らす。その一つ一つが、私の頬を張る平手のようだった。

 放課後の駐車場を思い出す。夕陽が影を長く伸ばしていた。拳が顔面にめり込んだ瞬間、私の頭にあったのは、彼を傷つけたくないという一心だけ。鼻筋に走る激痛、喉に逆流する血の味を飲み込み、私は立ち続けた。

 あの後、リアムは私を抱きしめて泣いた。「ごめん、全部俺のせいだ」と。

 私は鼻を押さえながら彼を慰めたのだ。「いいの、あなたを守るのは当然だから」

 今思えば、あの上級生たちもリアムが金で雇った役者だったのだろう。

 すべての傷跡、すべての涙、すべての献身。その全部が、ただの笑い話だった。守っているつもりで、私は彼の茶番劇の引き立て役を演じさせられていただけ。

 壁に背を預け、荒い呼吸を繰り返す。二週間前の、姉ジュヌヴィエーヴとの口論が脳裏をよぎった。

「イェールを捨てて州立大学へ?」姉はファイルを私に投げつけた。「アイリス、あんた正気なの?!」

「リアムには私が必要なの!」額から流れる血も拭わず、私は叫び返した。「彼が愛しいの。彼が傷つけられるのを黙って見てるなんてできない!」

 ジュヌヴィエーヴの瞳には、深い失望の色が浮かんでいた。「男一人のために自分の人生を棒に振るなんて……アイリス、きっと後悔するのよ」

 私は深く息を吸い込んだ。部室に怒鳴り込むことはせず、踵を返してその場を去る。

 駐車場に停めたマセラティに乗り込み、震える手で州立大学の合格通知を粉々に引き裂いた。紙吹雪のように舞い落ちる破片は、引き裂かれた私の青春そのものだった。

 スマホの画面の上で数秒指を迷わせ、姉への発信ボタンを押す。

「アイリス?」すぐに応答があった。

「お姉ちゃん」涙を拭い、私は静かに告げる。「お姉ちゃんの言う通りだった。手筈通り、ロンドンへ留学するわ」

 電話の向こうで、長い沈黙が落ちた。

「本気なの?」

「ええ」窓の外、暮れなずむ空を見つめる。「今までの人生の、どんな決断よりも」

 姉が深く息をつく気配がした。「その言葉をずっと待っていたわ。学校の手配は済んでいるから心配しないで。そうそう、ロンドンには私の古い友人がいるの。彼があなたの面倒を見てくれるはずよ」

 通話を切ると、画面が明るくなった。

 リアムからのメッセージだ。「アイリス、どこにいるの? いい知らせがあるんだ。州立大学の近くにすごく美味しいイタリアンがあるんだって。これからは常連になろうよ!」

 続けてもう一件。「あっちのアメフト部も悪くないらしいし、試合も見に来てくれよな。お前との大学生活、本当に楽しみだ」

 並んだ文字を見つめる私の心は、冷たく、鋭利な刃物で抉られたように痛んだ。

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