第2章
アイリス視点
リアムはいつもそうだ。
甘く、それでいて曖昧な期待や暗示をちらつかせて、私にすべてを捧げさせるよう仕向けてくる。
端末からメッセージの履歴を削除することはできても、脳裏に焼き付いた記憶までは消去できない。
二週間前のことだ。イェール大学への進学を放棄するという私の決断に激怒したジュヌヴィエーヴによって、私は自室での謹慎を命じられた。車のキーもクレジットカードも没収され、屋敷の使用人たちさえ遠ざけられてしまった孤立無援の夜。
深夜、不意に窓ガラスを叩く音が響き、心臓が跳ね上がった。
窓の外にはリアムがいた。彼は外壁の蔦を伝って軽々と侵入し、音もなく床に着地すると、驚く私に向けて悪戯っぽく微笑んでみせたのだ。
「どうしてここへ?」
声を潜めながらも、私の心臓は早鐘を打っていた。
「もしジュヌヴィエーヴに見つかったら……」
「そんなこと知るかよ」
リアムは私の手首を強く握った。。
「姉貴に閉じ込められたって聞いて、じっとしてられるわけないだろ?」
彼は私の額に貼られたガーゼに気づき、眉を顰めた。
「怪我をしてるのか?」
「平気よ、ただ……」
言葉に詰まり、喉が熱くなる。
「ジュヌヴィエーヴが、あなたのためにイェールを諦めるなんて狂ってるって……あんなに怒った彼女、初めて見たわ。私のことを……」
言いかけた言葉を塞ぐように、リアムが身を屈めた。包帯の上から、優しく口づけを落とす。
その瞬間、呼吸さえ止まりそうになった。
「怖がるなよ」
低く甘い声。彼の指が、私の手の甲をゆっくりと撫でる。
「俺がいる」
「でも……」
「シッ」
リアムは人差し指を私の唇に当て、熱っぽい瞳で私を見つめた。
「二人で州立大に行く約束だろ? そうすれば俺たちはずっと一緒だ。誰にも邪魔させない」
囁きながら、彼の指先は私の掌をくすぐるように円を描いていた。
高鳴る鼓動。姉の言葉で揺らいでいた決意は、その甘美な背徳の夜に再び固められてしまった。
当時はそれを愛だと信じて疑わなかったけれど、今ならわかる。あれはただの支配だったのだと。
翌日の午後。
一睡もできずにまどろんでいた私は、けたたましいチャイムの音で目を覚ました。
機械的に玄関へ向かい、扉を開ける。そこで私は凍りついた。
立っていたのはリアム。そしてその傍らには、エミリーがいたのだ。
「アイリス!」
リアムは太陽のように屈託なく笑った。
「やっと会えた! どうしてメッセージを無視するんだよ?」
私の視線は、彼の背後に隠れるように立つエミリーへと吸い寄せられた。質素なTシャツにジーンズ姿。彼女はおどおどと上目遣いでこちらを窺っている。
「あなたたち……」
喉が張り付き、声が掠れた。
「ああ、そうだ。大事な用を忘れてた」
リアムは悪びれもせず肩をすくめた。
「もうすぐ卒業パーティーだろ? エミリーのドレスが必要なんだ。君のクローゼットには売るほどドレスがあったはずだから、彼女を連れてきたんだよ」
私が口を開くより先に、エミリーの瞳が潤んだ。
「アイリスさん、私のこと嫌いなのはわかってます。でも……お願い、拒まないで」
彼女の声は涙混じりに震えていた。
「一度だけでいいんです。ちゃんとしたドレスを着てみたくて……お願いします……」
私が沈黙していると、リアムの声色が急に厳しくなった。
「アイリス、たかがドレス一着だろ? 何を渋ってるんだ?」
私は呆気にとられた。
「君には腐るほどドレスがあるじゃないか。貸してやったって減るもんじゃない」
彼は畳み掛けるように責め立てる。
「エミリーの家が苦しいのは知ってるだろ。卒業パーティーのドレスさえ買えないんだ。少しは寛大になったらどうなんだ?」
エミリーがすすり泣きながら、リアムの袖を引いた。
「もういいの、リアム。行こう……私が来るべきじゃなかったのよ……」
「馬鹿なこと言うなよ」
リアムはすぐさま彼女を慰めると、軽蔑の色を浮かべて私を睨みつけた。
「アイリス、君がこんな心の狭い人間だとは思わなかったよ。優しくて思いやりのある子だと信じていたのに、見損なった」
玄関先で繰り広げられる茶番劇を見ているうちに、ふと笑いがこみ上げてきた。
「ええ、あなたの言う通りね」
私はようやく口を開いた。
「私、ドレスならたくさん持ってるわ」
その言葉に、エミリーの表情がぱっと明るくなる。
「でも」
一呼吸置いて、私はリアムの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「それらはすべて私の所有物よ。どうして赤の他人に貸す必要があるの?」
リアムの顔色が変わる。「アイリス、君は……」
「それに」
私は彼の言葉を遮った。
「先月、エミリーがプラダの新作バッグを持って登校していたのを覚えているわ。あれは三千ドルもする品よ。そんな高価なバッグが買えるのに、どうしてドレス一着が買えないのかしら?」
エミリーの顔から血の気が引き、リアムはバツが悪そうに鼻を擦った。
「そ、それは……友達に借りたもので……」
しどろもどろに言い訳をする彼女。
友達? 心の中で冷笑が漏れる。そのバッグには見覚えがある。リアムが私のクレジットカードの家族カードを使って買ったものだ。
一体どんな「友達」だというの? ベッドの上だけの友達ってこと?
「そう」
私は口端を吊り上げた。
「なら、ドレスもそのお友達に借りればいいじゃない。どうしてわざわざ私のところへ?」
「アイリス!」
リアムがエミリーを庇うように前に出た。
「貸したくないならそれでいい! 俺たちだって買えないわけじゃないんだからな!」
彼は怒りに任せてエミリーの手を引き、足音荒く去っていった。遠ざかるエミリーの泣き声が、風に乗って消えていく。
ドアを閉め、その背に寄りかかって深く息を吐く。
スマートフォンを取り出し、銀行の担当者に電話をかけた。
「私の名義になっているカードを、すべて凍結してください」
声は驚くほど冷静だった。
「ええ、今すぐに。即時停止でお願いします」
ロックフェラー家の隠し子であるリアムは、一族の中で冷遇され、他の御曹司たちに比べて小遣いも雀の涙ほどしか与えられていない。だからここ数年、彼が必要とするものはすべて私が支払ってきた。
携帯、パソコン、衣服、車——。
彼を支えているつもりだった。けれど、私はただ彼が他の女の機嫌を取るための資金を提供していただけだったのだ。
胸の内で冷ややかな笑いが込み上げる。
私のカードがなくて、一体何で支払うつもりなのかしら。
通話を終え、窓辺に立つ。無意識に手が首元のネックレスへと伸びた。
それはシンプルなプラチナのチェーンに、小粒のサファイアがあしらわれただけのもの。陽光を浴びて、宝石は冷ややかな光を放っている。
三年前、あの人がこれをくれた時のことを思い出す。
彼は私の腕が痛むほど強く掴み、ギリリと奥歯を噛み締めて言い放ったのだ。
「アイリス・ヴァンダービルト。お前、本気であの出来損ないの義弟と付き合うつもりか? 早晩、手痛いしっぺ返しを食らうことになるぞ」
「その時になって、俺に泣きついてきても知らないからな」
当時の私は激昂し、彼を傲慢で最低な男だと罵った。
けれど今ならわかる。
彼の言った言葉は、一言一句、すべて正しかったのだと。
