第3章

アイリス視点

「アイリス! 俺のカードを止めたのか!?」

 リアムの怒声が廊下に響き渡り、行き交う生徒たちの視線が一斉に突き刺さる。

 留学の手続きを終え、書類の束を抱えて立ち去ろうとしたところを、彼に腕をぐいと掴まれたのだ。

「昨日、エミリーや店員の前でどれだけ恥をかいたと思ってるんだ!」彼は低い声で唸った。「カードが使えなかったんだぞ! 三回も通したのにダメだった! みんな俺を笑ってやがった!」

 私は彼の手を振り払った。

「止めたのはジュヌヴィエーヴよ。私の進路に不満があるから、家族カードをすべて凍結させたの」

 リアムの顔色がさっと変わる。私の姉の強権ぶりを思い出したのだろう。彼は歯を食いしばり、深く息を吸い込んだ。

「じゃあ……お前から姉さんに言えないのかよ……」

「試したわ」私は彼を真っ直ぐに見つめる。「彼女の性格、知ってるでしょ」

 二人の間に、奇妙な沈黙が流れた。

 リアムは私の顔をじっと見つめ、その瞳に不安の色を滲ませた。

「アイリス、お前……最近変だぞ」

「どこが?」

「うまく言えないけど」彼は眉を寄せ、一歩踏み出してくる。「俺を見る目が違う気がする。まさか……州立大学に行くって話、考え直したんじゃないだろうな?」

 私はふっと笑い、バッグからスマホを取り出した。イェール大学の合格辞退完了メールのスクリーンショットを表示し、彼に見せる。

「イェールの合格は、正式に辞退したわ」

 リアムは全身から力を抜き、安堵の息を吐いた。

「マジか? やっぱりそうだよな! アイリス、お前は最高だ」

 彼は抱きつこうと手を伸ばしてきたが、私はさらりと身をかわした。

「そうだ」彼の声が弾む。「州立大学に行ったらさ、姉さんの機嫌とってくれないか? カードを使えるようにしてほしいんだ。これからは節約するし、無駄遣いもしないから――」

「リアム!」

 廊下の向こうからエミリーの声がした。彼女は小走りで駆け寄ってくる。

「お願い、助けて。車のキーを落としちゃったみたいで……」

 目元を赤くし、今にも泣き出しそうだ。

「お母さんにバレたら殺されちゃう……」

「大丈夫だ、落ち着け」リアムは即座に彼女を慰める。「今すぐ一緒に探してやる」

 そして、彼は私を振り返った。

「アイリス、夜の卒業パーティーで会おう。めかしこんで来いよ、ファーストダンスは俺と踊るんだからな」

 そう言い残し、彼はエミリーに手を引かれるようにして去っていった。

 私はその場に立ち尽くし、二人の背中を見送る。手の中の書類がくしゃりと音を立てた。

 州立大学に行ったら、カードを解凍してくれ?

 寝言は寝て言って。

 夜の卒業パーティーは学校の大講堂で開催され、誰もが華やかに着飾っていた。

 私は深い蒼のベルベットドレスを身に纏い、会場に足を踏み入れる。その瞬間、無数の視線が集まるのを感じた。

「なんてこと、今夜のアイリスは本当に綺麗ね」

「イェールを蹴って、リアムと州立大学に行くって噂、本当?」

「あの隠し子のために……正気じゃないわ」

 私はひそひそと交わされる声を無視し、真っ直ぐに隅のバーカウンターへと向かうと、赤ワインのグラスを手に取った。

 会場の反対側では、リアムがアメフト部のチームメイトたちと談笑していた。私に気づくと、パッと目を輝かせ、こちらへ来ようとする。

 その時、エミリーがワイングラス片手に私の方へ歩み寄ってきた。

 淡いピンクのドレス――リアムがカードを限度額いっぱいまで使って買い与えたものだ。

「アイリス、今夜は本当に綺麗ですね」と、彼女はか細い声で言った。

「ありがとう」私はそっけなく返す。

「実は……」エミリーは唇を噛む。「謝りたかったんです。この前、ドレスを借りたいなんて言って、図々しかったですよね……」

 その時だった。彼女の足が突然もつれたのは。

「きゃっ!」

 エミリーが悲鳴を上げ、私の方へ倒れ込んでくる。私は反射的に身を引こうとしたが、彼女の手が私の腕を強く掴んで離さない。

 次の瞬間、私の手の中のワイングラスが傾き、中身が彼女の胸元へぶちまけられた!

 鮮血のようなワインのしみが、ピンクのドレスの上で無惨に広がる。

「アイリス!」エミリーは胸を押さえ、瞬時に涙を溢れさせた。「どうして突き飛ばしたりするの!?」

 私は呆然とした。

「突き飛ばしてなんていないわ」

「嘘よ!」エミリーは私を指差し、梨を潰したように泣きじゃくる。「話しかけただけなのに、いきなりドンって! ワインまでかけて!」

 リアムが飛んできて、エミリーを抱き起こす。彼女のドレスの惨状を目にし、彼の顔色が怒りで青ざめた。

「アイリス!」彼は吼えた。「なんてことをするんだ!」

「突き飛ばしてない」私は深く息を吸う。「彼女が勝手に倒れ込んできたのよ」

「嘘をつくな!」リアムは激昂して立ち上がった。「俺は見ていたぞ! ドレスを貸すのを断ったと思ったら、今度は台無しにする気か! そこまでエミリーに嫉妬してるのか!?」

「私が? 彼女の何に嫉妬すると言うの?」

 信じられない思いで彼を見つめる。

「自覚がないのか!」リアムは叫んだ。「エミリーは優しくて善良だ。お前みたいに高慢な令嬢とは違う! 俺が彼女に優しくするのが面白くないんだろ!」

「リアム……もういいの……私が悪いのよ……来なければよかった……」エミリーが泣きながら彼の袖を引く。

「君のせいじゃない!」リアムは彼女を抱き寄せ、私を睨みつけた。「アイリス、お前には失望した」

「言ったでしょ、私は押してない!」私の声も思わず荒らげた。

「もういい!」リアムが遮る。「みんな見てたんだ、言い訳するな」

 彼はエミリーの腰を抱き、冷ややかに言い放った。

「ファーストダンス、お前とは踊らない。俺はエミリーと踊る」

 私は凍りついた。

「……何て言ったの?」

「俺は、エミリーとファーストダンスを踊ると言ったんだ!」リアムの声は大きく、周囲の全員に聞こえていた。「彼女への償いだ! お前にいじめられた分のな!」

 周囲からざわめきが起こる。リアムはエミリーを優しく撫で、慰めている。

 そして私は、滑稽なピエロのように隅に立ち尽くし、好奇と嘲笑の視線に晒されていた。

 心臓を握り潰されるような痛みに、息ができなくなりそうだ。

 私は彼を見て、ふっと笑った。

「そう」私は背を向ける。「好きにすれば」

「アイリス!」リアムが背後で叫ぶ。「このまま行く気か? エミリーに謝れよ!」

 私は足を止め、振り返らずに答えた。

「謝る?」嘲るように鼻を鳴らす。「リアム、私が謝るべき相手は、この世でただ一人。私自身よ。あなたのためにイェールを諦めた、私自身にね」

 そう言い捨て、私は二度と振り返ることなく会場を後にした。

 講堂を出た瞬間、堪えていた涙がこぼれ落ちた。

 リアムのためではない。自分のためだ。

 あんな男のために全てを捨てようとした、愚かな自分のために。

 深夜二時。突然スマホが震えた。

 リアムからだ。

 画面に点滅する名前を見つめ、数秒ためらったが、私は通話ボタンを押した。

「アイリス!」

 受話器の向こうから、怒りに満ちた声が響く。

「エミリーが自殺した! 全部お前のせいだぞ!」

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