第2章

 あの電話がなければ、私は今頃こう返信していたはずだ。「ありがとう。でも、家庭を優先したいの」。断りの文面さえ、頭の中で組み上がっていた。だが、現実は私の頬を容赦なく張り飛ばした。

 胸の奥に広がる荒涼とした寒々しさを押し殺し、まだ寝息を立てている由衣に目を向ける。

 かつては、この家こそが世界のすべてだと信じていた。大輔を愛していたからだ。描きためたデザイン画も、収集した生地見本もすべて封印し、夢を段ボール箱に詰め込んでしまうほどに。けれど、その対価として与えられたのは、裏切りだった。

 彼がかつてどれほど私を愛していたとしても、裏切りだけは許容できない。

 私は真琴に返信を打つ。「わかった。明日帰国してから、詳しいことはまた連絡するね」

 送信ボタンを押し、荷造りを始めた。

 明日には帰宅することになる。だが、あの家に足を踏み入れることを想像しただけで、胃の腑がねじ切れるような吐き気を覚えた。

 離婚弁護士の清水綾子にメールを送り、相談の予約を入れる。スマホのメモ帳を開き、資産リストを書き出し始めた。自宅、大輔の持ち株、投資口座、それに彼が昨年購入したスポーツカーまで。

 結婚して八年。私のものである半分は、きっちりと回収させてもらう。

 由衣が寝返りを打ち、布団が肩から滑り落ちた。私は歩み寄り、そっと掛け直してやる。

 まだほんの子供だというのに、彼女はもう父親のために嘘をつくことを覚えてしまった。それでも、私は良き母親であろうと努める。それだけは変わらない。

 ノートパソコンを開き、ホームセキュリティシステムにログインする。監視カメラの映像が画面に映し出された。

 シークバーをドラッグし、私と由衣が家を出たあの晩へと遡る。

 トレーニングルームの明かりがついている。彼の愛人は、私が大学時代に使っていたチアリーディングのユニフォームを着ていた――今の私にはもう入らない古着だ。彼女は大輔の前でくるりと回ってみせる。ベンチに座る大輔の眼差しは、私が久しく目にしていなかった熱を帯びていた。

「あの頃の彼女みたいじゃない?」

 大輔は答えず、ただ手を伸ばして彼女を抱き寄せた。画面の中の二人が唇を重ね始めたところで、私は早送りボタンを押した。

 翌日、二人はリビングのソファで交わっていた。三日目はキッチンのアイランドカウンター。四日目は、私たちの寝室。

 何より反吐が出そうだったのは、金曜の夜の映像だ。あの女が私のウォークインクローゼットを開け、コレクションしていたデザイナーのサンプル品を取り出したのだ。結婚前に購入し、袖を通すのを惜しんで大切にしていた一着。彼女は鏡の前でそれを体に当て、大輔が背後から抱きすくめる。

「彼女、もうこれ入らないんじゃない?」

「だろうな」

 大輔の声は平坦だった。

「もったいないわね」

 女は振り返り、指先で彼の顎をなぞる。

「こんないい服、似合う人が着なきゃもったいないわ」

 私はパソコンを閉じた。喉元までこみ上げる嫌悪感。だが、それ以上に鋭利な屈辱が胸を突き刺す。

 私の体、独身時代のコレクション、かつての青春――そのすべてが、彼らの不倫という遊びの小道具に成り下がっていた。

 由衣のスマートウォッチが震えている。着信表示は「大輔」。

 私は通話ボタンを押した。

「由衣?」

 大輔の声には、情事の余韻であるあえかな息遣いが混じっていた。

「あの子なら、もう寝たわ」

 電話の向こうで二秒ほどの沈黙。彼が呼吸を整える気配がした。

「恵美か」

 即座に、声色が優しいトーンへと切り替わる。

「疲れてないか? 明日の朝、迎えの車を手配しておいたよ。朝食は何が食べたい?」

 子供をあやすような、甘ったるい声音。

 実に甲斐甲斐しいことだ、電話を寄越すなんて。彼の愛人はまだ裸のまま隣に寝そべっているのだろうか。私たちのベッドの上で。

「大丈夫」

 私は淡々と返した。

「空港にカフェがあるから」

「そんなわけにはいかないだろう」

 寝返りを打つ音が聞こえた。マットレスが立てる、聞き慣れた軋み音。

 彼はまだ喋り続けている。甘い言葉の羅列。私は子供用のスマートウォッチを握りしめたまま、思考をまとめることができない。

「疲れてるの」

 私は彼の言葉を遮った。

「切るわね」

 翌日の空港。大輔は赤い薔薇の花束と、小ぶりな向日葵の花束を抱えて待っていた。向日葵を由衣に、薔薇を私に差し出す。

「お帰り」

 彼は私を抱きしめた。

 だが、彼から漂う見知らぬ香水の匂いに、私は反射的にその体を突き飛ばしていた。

 車内で、大輔は紺色のベルベットの小箱を取り出した。

「プレゼントだ」

 蓋を開けると、そこには繊細な銀のブレスレットが収められていた。チャームは小さなバレエシューズの形――私は元チアリーダーだが、バレエなど一度も踊ったことはない。

 由衣が顔を寄せてくる。

「すごーい! お父さん、センスいい!」

 大輔が私の手首にブレスレットを巻く。留め金がカチリと鳴った瞬間、内側に刻まれた小さな文字が目に入った。「杏奈へ」。

 私は手首を掲げた。

「杏奈って、誰?」

 車内の空気が一瞬で凍りつく。

 大輔は笑い声を上げた。

「店の手違いだな、きっと。確かに君の名前を頼んだはずなのに」

「そうだよ!」

 由衣がすかさず口を挟む。

「お父さんが注文した時、私、横にいたもん。ちゃんとお母さんの名前を入れてって言ってたよ」

 その口調はあまりに自然で、瞳はどこまでも澄んでいた。

 彼女はわかっていないのだろうか。そんなことをすれば私を失うことになるということを。それとも、そもそも私のことなど好きではないのか。

 大輔はまだ言い訳を並べている。店にクレームを入れるだの、作り直させるだの。

 私はそれを聞きながら、心が冷え切っていくのを感じていた。夫は嘘をつき、娘はその嘘に加担する。あまりにも息の合った連携プレーだ。

 大輔の手が私の膝に置かれた。

「今夜、由衣が寝たらゆっくり話そう。会いたかったよ」

 指先の体温は温かいのに、私はただ寒気しか感じない。監視カメラの映像の中で、この手が愛人の体をまさぐっていた記憶。そして彼が吐き捨てた、「あいつの体、出産で崩れちゃったからな」という言葉が蘇る。

「疲れてるの」

 私は彼の手をそっと払いのけた。

「フライトが長かったから、頭が痛くて」

 帰宅するなり、私は真っ直ぐにトレーニングルームへと向かった。巨大な鏡の前には、彼らが絡み合っていた残像が焼き付いているように思える。

 大輔が後を追ってきた。

「覚えてる?」

 背後から抱きすくめられ、肩に顎を乗せられる。

「昔、君はよくここで練習してたよね。踊っている時の君は、光り輝いているみたいだった」

 彼の手が二の腕を滑り降りる。同じ動作、同じ台詞。けれど私は知っている。彼がこの同じ場所で、別の女にも同じことをしていたのを。

 私は深く息を吸い込み、鏡越しに彼の目を射抜いた。

「大輔」

 私は告げる。

「話し合いが必要よ」

 彼の笑みがわずかに翳る。

「どうしたんだい?」

「私たちの結婚について」

 自分の声が恐ろしいほど冷静なのがわかった。

「そして、未来について」

 彼は拘束を解き、私の方へと向き直った。その表情が優しさから困惑へ、そして微かな不安へと変わっていく。

「恵美、何か誤解してるんじゃないか?」

 彼は私の手を取ろうとした。

 十年も愛し続けた男の顔を見て、胸が締め付けられるような激痛が走る。だが、あの監視カメラの映像が脳裏をよぎり、私を冷徹な現実へと引き戻した。

「触らないで」

 私は彼の手を振り払った。

「大輔、私たち、離婚――」

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