第3章
知佳の視点
体育館に足を踏み入れたとき、美愛は大きく膨らんだお腹を撫でながら、義母の晴美と談笑していた。
まるで、何も起きていなかったかのように。
エントランスには、『逸人くん退院おめでとう』と書かれた巨大な横断幕が掲げられている。
シャンパンタワー、シャンデリア、そして燕尾服に身を包んだ給仕たち。招待客はグラスを交わし、絶え間なく笑い声を上げている。
ここは本来、聡のために建てられた施設のはずだった。それが今や、あの子を殺した殺人鬼の回復を祝う舞台へと成り下がっている。
入り口に立ち尽くし、首から下げた遺骨ペンダントを固く握りしめる。腹部の傷口からは今も血が滲み、包帯を赤く染めていた。一歩足を踏み出すたびに、腹の中を刃物でえぐられるような激痛が走る。
晴美がポケットから懐中時計を取り出した。それは中島家に代々伝わる、跡継ぎだけが受け継ぐことを許された家宝だ。
彼女は満面の笑みを浮かべ、それを逸人の首にかけた。
「退院おめでとう、私の可愛い宝物」
美愛はわざとらしく遠慮してみせる。
「そんな、高価すぎます……知佳さんの子どもに譲るべきですよ……可哀想な聡くんに……」
ふと顔を上げた彼女は私と目を合わせ、途端に驚いたような表情を作った。
「あら、知佳さん! 来てくれたんですね!」
晴美が冷ややかな視線を私に向ける。
「知佳、家でおとなしく療養していればいいものを、のこのこ何しに来たの? 家に泥を塗るつもり?」
私を上から下まで値踏みするように舐め回し、鼻で笑う。
「まあいいわ。自分の子どもすら守れないようなろくでなしに、体面なんてあるわけないものね」
美愛がため息をつく。
「お義母様、そんな言い方は……」
「何か間違ったこと言ったかしら? あの子も知佳の下に生まれたのが運の尽きね」
晴美は冷笑した。
「こんな母親を持ったんだから、死んでかえってラクになったんじゃない?」
爪が掌に深く食い込む。
この義母は、私が嫁いできた初日から私を秀樹をたぶらかした泥棒猫と罵り続けてきた。結婚から二年間子どもができず、卵も産めない雌鶏と嘲笑した。聡を産んだ後も、母親に似て可愛げのない子だと忌み嫌っていた。今思えば、彼女はあの頃からすでに逸人の存在を知っていたのだろう。
私に気づいた秀樹が足早に近づき、私の肩を抱き寄せた。
「知佳? どうしてここへ来た? 家で休んでいるはずじゃ――」
「ここはあなたが、私の息子のために建てると言ったトレーニング施設じゃないの?」
私は顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに睨みつけた。
「どうして私が来ちゃいけないの?」
彼の瞳がわずかに泳ぐ。
「聡はもう……だから、この施設は地域に寄付して、より多くの子どもたちに使ってもらうことにしたんだ。聡への……供養にもなるだろう」
「聡への供養?」
私は横断幕を指差した。
「じゃあ、あれは何? 『逸人くん退院おめでとう』?」
美愛が歩み寄り、優しげに語りかける。
「知佳さん、子どもを失った悲しみはよくわかります。でも、私たちは前を向いて生きていかなきゃいけないでしょう? 聡くんだって、あなたのそんな姿を見たら悲しみますよ……」
彼女はそっと自分のお腹を撫でながら、瞳の奥に挑発的な光を閃かせた。
あのお腹の子。秀樹は以前、美愛の新しい恋人の子どもだと言っていた。それもまた、嘘だったのだ。
もうこれ以上抑えきれなかった。あの偽善に満ちた顔を引き裂いてやろうと、私は彼女に向かって飛びかかった。
秀樹が私の腕を強く掴み、声を押し殺して警告する。
「知佳、いい加減にしろ」
彼は私を引きずりながら、清掃用具が積まれた人目に付かない隅の方へと連れ込んだ。
「ここで騒ぎを起こすな」
彼は苛立たしげに吐き捨てる。
「今日は親族が大勢来ているんだ。お前が狂った真似をすれば、中島家の恥になる。わかるな?」
「中島家の恥?」
私は冷笑した。
「私の息子だって中島の名を継いでいたわ。あの子のお葬式は? あの子の晴れ舞台はどこにあるの?」
秀樹の目がすっと冷たくなり、私の手首に食い込む指の力が強まる。
「知佳、俺は十分に寛大な態度を取ってきたつもりだ。これ以上、手荒な真似をさせないでくれ。わかったか?」
走る激痛に、私は思わず息を呑んだ。
彼は私の手を振り払い、背を向けて立ち去った。
私はただ一人、掃き溜めのような隅っこに座り込んでいた。まるで捨てられたゴミのように。
周囲を満たしているのは、私の息子の腎臓を奪って生き延びた子どもを祝う歓声と笑い声。
胸の奥が、息ができないほどに痛んだ。
―――
どれくらいの時間、そうやって座り込んでいたのだろうか。
足音が近づいてくる。
美愛が逸人を連れてやって来た。彼女は周囲をさりげなく見回し、ボディガードが遠くにいることを確認するや否や、その顔から笑みを消し去った。
「少しお話ししましょうか、知佳さん」
彼女は私を見下ろして言った。
「あなたと話すことなんて何もないわ」
「強がるのはやめたら?」
美愛の声は氷のように冷たい。
「あなたが何を考えているかなんてお見通しよ。自分の息子が死んだから、生きている私の息子に嫉妬しているんでしょ?」
「残念だったわね。秀樹の心には私と逸人しかいないの。あなたとあの死んだ息子なんて、ただの目障りなゴミでしかなかったのよ」
私は彼女を睨みつけ、震える手を握りしめる。
「何? 悔しい?」
美愛は声を上げて笑った。
「誰のせいでもないわ。あなたが愚かすぎただけ。私はただ、逸人に仮病を使わせただけで、秀樹の愛も財産もすべて手に入れた。それなのに、あなたはあの出来損ないの息子にすがりついて、何一つ気づかなかったんだから」
突然、逸人が口を開いた。耳障りな甲高い声だった。
「そうそう、知佳おばさん。あんたの息子には感謝してるよ」
彼は自分の脇腹をポンポンと叩く。
「あいつの腎臓がなかったら、俺、あと何年も待たなきゃならなかったし」
「知ってる? 俺が今使ってるの、あいつの腎臓なんだ。トイレに行くたびに思うんだよね。あの馬鹿が唯一役に立ったのがこれだって。あはははっ――」
「黙れッ!」
私は弾かれたように飛びかかり、その頬を打とうと手を振り上げた。
その瞬間、美愛が私を力任せに突き飛ばす。
床に激しく打ち付けられ、腹部の傷口がぱっくりと裂け、鮮血がどっと溢れ出した。気を失いそうなほどの激痛が襲う。
「俺をぶつ気かよ?」
逸人がすぐさま駆け寄り、私の首から遺骨ペンダントを乱暴にむしり取った。
「何だこれ、キモッ」
彼はペンダントを高く掲げる。
「死んだ息子の骨?」
「返してッ!」
私は必死にもがき、立ち上がろうとした。
逸人は容赦なく、そのペンダントを床に叩きつけた。
砕け散るペンダント。
聡の遺骨が、無惨にも床一面に散らばった。
