第3章
癒し手の手が震えていた。私の傷口を必死に押さえているのに、血は止まらず溢れ出す。額の汗がぽたりと落ち、床板を濡らした。
「隊長……」
癒し手が顔を上げる。焦りのにじんだ声だった。
「もうもたない。医療所へ運ばなきゃ、今すぐ!」
ケールは迷わず、通信水晶をもう一度取り出した。
幽かな青い光が灯り、エイドリアンの姿が宙に結ばれる。
「族長!」
癒し手は叫ぶように言った。
「すぐお戻りください! あなたの番が失血しすぎています。このままでは――」
「もういい」
エイドリアンが遮る。苛立ちを隠しもしない声。
「お前もいい歳した癒し手だろう。まさかお前まであいつに買収されるとはな。いくら積まれた? 芝居に付き合う代金は」
癒し手が固まった。
「族長、俺は癒し手です。命を弄ぶ真似はしません」
エイドリアンは鼻で笑う。
「どれだけ演技が上手いか知ってるか? あいつと長く暮らしてきた俺がわからないとでも? あの女は地位のためなら何だってする。時間を無駄にするな」
「エイドリアン、聞いてくれ」
耐えきれずケールが口を挟んだ。
「俺が見たんだ。演技じゃない。床じゅう血だらけで――」
「ケール、関わるなと言ったはずだ」
エイドリアンの声がいっそう冷えた。
「お前ならもっと賢いと思っていた。あいつは演じるんだ。俺が騙されると?」
「俺は本当に――」
「だから、放っておけ!」
唐突に声が跳ね上がる。
「今すぐそこを離れろ。巻き込まれるぞ」
ケールは深く息を吸い、突然、水晶を私へ向けた。
「見ろ。これでもまだ、芝居だと言い切れるか」
水晶の光が私を照らす。
エイドリアンには見えているはずだ。血の海に横たわる私の姿も、頬を汚す血も、弱々しく、ほとんど上下しない胸元も。
けれど返ってきたのは、嘲りだった。
「よくもまあ、そこまで血を用意したな。そもそも獣人が、そんな有様になるわけがない。いい、もう構うな。こっちはセラフィナが産気づいてる。あいつに構ってる暇はない。好きに演ばせておけ」
映像がふっと消える。
水晶の光が沈み、暗くなった。
ケールと癒し手が視線を交わす。そこにあったのは、どうしようもない絶望。
「くそ……」
癒し手が吐き捨て、しゃがみ込み、再び私の傷を押さえた。声が震えている。
「駄目だ……出血が多すぎる。血を補わねば。卵を取り出すため腹を切る準備も……手元には何もない」
呼吸が、浅くなる。
空気が粘ついた液体に変わったみたいで、吸うたび溺れる。
「医療所へ連れていく」
ケールが小さく息を吐いた。
「その後の罰は、全部俺が受ける」
近づいてきて、抱き上げようとした瞬間――癒し手が目を見開いた。
「くそっ……踏ん張れ!」
意識が闇の中で沈んだり浮いたりする。
必死に腹へ手を伸ばし、子の存在を確かめようとした。
けれど、何も感じない。
「耐えろ、フレイア!」
ケールの声が、遠い遠い場所から聞こえた。
聞こえている。なのに、もう耐えられない。
涙はとっくに枯れて、泣くことすらできなかった。
ごめん。
ごめんね、私の赤ちゃん。
ママは守れなかった。
ママは、だめだね。
腹の上の手がするりと滑り落ち、床へだらりと垂れる。
視界の縁から闇が押し寄せ、少しずつ、最後の光を喰い尽くしていった。
エイドリアン視点
扉が開いた瞬間、エイドリアンは立ち上がった。
数名の癒し手が、巨大な蛇の卵を抱えて出てくる。殻は黒く、灯りを受けて鈍く艶めいていた。
「おめでとうございます、族長」
先頭の癒し手が告げる。
「すべて順調です。セラフィナ様は無事、蛇の卵を一つ産み落とされました」
エイドリアンは小さく頷き、卵が慎重に運ばれていくのを見届けた。
――無事だった。
セラフィナが無事に産めた。それが何よりだ。かつて好きだった相手でもある。力になるのは当然だろう。兄を失ったあとも、子が傍にいれば、少しは寂しさが紛れる。
それにしても、フレイアはなぜあんなにもセラフィナを敵視するのか。
自分は何も道を踏み外していない。ただ連れ戻し、面倒を見てやっただけだ。なのにフレイアは狂ったように騒ぎ、挙げ句セラフィナに手を出そうとした。
失望しかない。
だが、もう終わった。
戻ったら適当に宥めてやればいい。これからは二人で静かに暮らせばいいのだ。あれほど自分を愛しているくせに、大勢を巻き込んで芝居まで打つ――滑稽で、なのにどこか、胸が緩む。
エイドリアンは首を振り、蛇の姿へと変じて城へ急いだ。
城内は妙に静かだった。空気の奥に、かすかな血の匂いが漂っている。
目に入ったのは、床に座り込むケール。壁にもたれ、魂でも抜けたように動かない。
「お前、まだいたのか」
人の姿に戻り、エイドリアンは歩み寄った。
「フレイアは? どこかに隠れて拗ねてるのか。出てこいと伝えろ。もう騒ぐな」
ケールがゆっくり顔を上げた。目の縁は赤く、顔色は死人のように白い。
胸の奥に、嫌なものが湧き上がる。
エイドリアンは声を落とした。
「……どうした。今度は何の手品だ」
ケールの唇が震え、掠れた声が、ほとんど音にならない。
「フレイアは……もう……いない」
