第1章

【恵子視点】

 私はかつて、名高い天才油絵画家だった。美術界からは神童ともてはやされていた。

 しかし、夫の起業を支えるために、私は筆を置いた。

 完璧な妻になるため、手についた絵の具を洗い落としたのだ。家族の世話をするために、自分のキャリアのすべてを犠牲にした。

 その犠牲によって、非の打ち所のない幸せな家庭が手に入ったのだと信じていた。

 ほんの数日前のこと。愛する十歳の娘、奈々が私の腕にしがみついてきた。

「ママ、一緒に北海道に行こうよ!」

 彼女は、半月に及ぶ限定の泊まり込みアート・サマーキャンプのパンフレットを振っていた。

「ママと二人きりがいいの。パパはダメ!」奈々は、無邪気で懇願するような瞳で私を見上げた。

 すぐ隣に座っていた健太は、全く残念そうな素振りを見せなかった。

 それどころか、彼は嬉しそうに大声で笑った。

「それは名案だ! 二人には水入らずの時間が必要だよ」

 彼はスマートフォンを取り出し、その場で私たちの航空券を予約してくれた。

 私は有頂天になった。娘との絆を深める絶好のチャンスだと思ったのだ。

 空港で夫に別れのキスをし、彼の理解に感謝した。私は何一つ疑っていなかった。

 私は、完全な、大馬鹿者だった。

 今、私は札幌の豪華なホテルの部屋で一人座っている。奈々は隣の部屋でぐっすりと眠っている。

 飼っているゴールデンレトリバーに会いたくて、私はスマートフォンの高画質ペットモニターアプリを開いた。リビングの特注ラグの上で、愛犬が居眠りしている姿が見られると思っていた。

 しかし、画面には誰も映っていなかった。

 そして、スピーカーから聞こえてきた音に、私の全身の血が凍りついた。

「……そこ。ああっ、健太、いいわ」

 女の喘ぎ声だった。私の家の、私のソファで。

 続いて、夫の声がした。

「気持ちいいか、理奈?」

 理奈。

 佐藤理奈。

 奈々のために高額で雇った、専属のプライベート乗馬コーチだ。

 スマートフォンを握りしめる指に力が入り、関節が白くなった。

「恵子さん、早く帰ってきたりしないわよね?」理奈が猫なで声で言う。その声には、汗と悪意がにじみ出ていた。

 私は息を潜め、健太がほんの少しでも罪悪感を見せるのを待った。

 だが、彼は得意げで傲慢な笑い声を上げた。

「安心しろよ」健太は鼻で笑った。

「あいつはどこにも行かないさ」

「どうしてそんなに自信があるの?」

「奈々がそうさせてるからな」

 私の心臓が、肋骨に激しく打ち付けられた。

「あの子は、母親を北海道に釘付けにするためなら何だってするさ」健太は豪語した。

「俺はただ、あの子がずっと欲しがっていた純血種のポニーを約束してやるだけでよかったんだ」

 強烈な吐き気が襲い、私はえずいた。

 私の娘。可愛くて、無邪気な十歳の奈々。

 彼女は、この半月に及ぶ北海道での泊まり込みの最高級アート・サマーキャンプに行きたいと私にねだったのだ。

 そして、健太はすぐにチケットを予約した。

 私は、彼が愛情深い父親として、私たちに絆を深める機会を与えてくれたのだと思っていた。

 私は馬鹿だった。

 彼らは私を裏切るために結託していたのだ。父親と娘が。

 私自身の血を分けた我が子が、馬のために私を売ったのだ。

「んっ……彼女の特注ラグの上でするのって、すごくスリルがあるわね」理奈はくすくす笑い、あからさまに挑発的な口調で言った。

「悪い子だ」健太はうめき声を上げ、私たちの家を汚すという病的なスリルに完全に浸りきっていた。

 スマートフォンから聞こえてくる濡れた水音は、肉体的な暴力のようだった。

 私は床に崩れ落ちた。熱く苦い涙が顔を伝い落ちた。

 大学時代の記憶が、割れたガラスのように鋭く私の心を突き刺した。

 十九歳の健太が、私の寮の部屋の床にひざまずいている。

 彼は全身を震わせて激しく泣きじゃくっていた。

 彼の父親の浮気が発覚した直後のことだった。

「親父のようには絶対にならないよ、恵子!」彼は私の手を必死に握りしめながら誓った。

「神に誓う。今、母さんが感じているような苦しみを、君には絶対に味わわせない」

 それは、私が心から彼を愛した瞬間だった。

 彼が他の男たちとは違うのだと信じた瞬間だった。

 今となっては、その記憶は吐き気を催すような、哀れな冗談に過ぎない。

 彼はただ父親と同じになっただけではない。それよりはるかに残酷な怪物になっていた。

 私たちの娘を、共犯者に仕立て上げたのだから。

 そのあまりの残酷さに、私は息が詰まった。

 叫び出したかった。次の便で引き返し、あの家を焼き払ってやりたかった。

 しかしその時、手の中でスマートフォンが振動した。

 画面の上部に、新しいメールの通知が滑り込んできた。

 送信者:高橋大輔。

 かつてのギャラリーのパートナーだ。

 私は震える指でそれを開いた。

 件名:東京が呼んでいる

【恵子、君が家族のために身を引いたことは知っている。だが、美術界は君を求めているんだ。東京へ来てほしい。君の個展をもう一度開こう。君の才能を永遠に埋もれさせておくべきじゃない。二ヶ月後、東京で待っている】

次のチャプター