第2章
【恵子視点】
キーボードの上で指が宙を舞った。心臓が肋骨を打ち破らんばかりの、激しく狂おしい鼓動を打っている。躊躇いはなかった。私はレジデント・アーティストのプロジェクトを承諾する。
『契約書を送ってください』
それから、私は再び悪夢へと意識を向けた。スマホで防犯カメラのフル映像を開き、見落としていた数時間分の記録を無理やり直視する。
胃液が酸のように喉の奥からせり上がってきた。
そこには理奈がいた。彼女は私の主寝室を我が物顔で練り歩いていた。私がオーダーメイドしたシルクのナイトガウンを身に纏って。
私の高級ワインをグラスに注ぎ、笑い声を上げている。純粋な嫌悪感が、波のように次から次へと私を飲み込んでいく。私のベッド。私の服。私の聖域。あいつらは、そのすべてを汚したのだ。
日本への帰りのフライトは、ただただ苦痛だった。
私は何も知らない、完璧な母親を演じきった。
奈々に微笑みかけ、その手を握る。
だが、あの大きく無邪気な瞳で見つめられるたび、胃が激しく掻き回された。
飛行機が着陸し、ターミナルを出る。
「恵子! こっちだよ!」到着ゲートには健太が立っていた。これ見よがしに、輸入物のバラの巨大な花束を抱えている。
彼はどこからどう見ても、非の打ち所のない献身的な夫だった。近所の誰もが羨むような男。
彼は私を力強く抱き寄せた。
「ああ、会いたかったよ」
彼のコロンの香りに、理奈の香水の微かな残り香が混ざっている。
吐き気を堪えるため、私は息を止めた。
「おかえりのサプライズがあるんだ」と、彼は耳元で囁く。
そしてジャケットのポケットから、艶やかなベルベットの箱を取り出した。
箱を開けると、そこには世界限定モデルのパテック・フィリップのレディース腕時計が収められていた。
「わあ、ママ! 見て!」奈々がぴょんぴょんと飛び跳ねて歓声を上げた。
「パパ、ママのことすっごく愛してるんだね!」私の可愛い娘。私の、小さな共犯者。
私は震える唇で無理やり笑顔を作り、自分の役を演じた。
「とても……綺麗ね、健太。感動したわ」
だがその直後、彼が車の鍵を取り出そうとポケットに手を入れた時のことだ。
くしゃくしゃの紙切れがひらりと舞い落ちた。レシートだ。それは磨き上げられた床の上、ちょうど私の靴のつま先へ、表を向いて落ちた。
私の視線は無意識に合計金額の欄へと吸い寄せられた。金額が倍になっている。彼は限定物の時計を一つ買ったわけではなかった。まったく同じ時計を、二つ買っていたのだ。
耳の奥で脈打つ音が響く。
「何か落としたわよ、あなた」私は言った。すっかり感情の抜け落ちた、平坦な声だった。私は指でその紙切れを指し示した。
健太の完璧で愛情深い笑顔が、一瞬にして凍りついた。顔からスッと血の気が引いていく。その瞳に、本物のパニックが走った。彼は床からレシートをひったくるように拾い上げた。
「あ、これはその……説明させてくれ――」
彼が哀れな言い訳をどもりながら口にするよりも早く、甲高い声がそれを遮った。
「それ、馬主の奥さんへのプレゼントだよ!」奈々が口を挟んだ。彼女は瞬き一つしなかった。ほんの少しの躊躇いすらなく。
「私が血統書付きのポニーをもらえるように、パパが奥さんにプレゼントを買わなきゃいけなかったの! まったく同じ時計にしたらって、私が提案したんだ!」ほんの一瞬、その場に沈黙が降りた。次の瞬間、健太が信じられないほど大きな、深い安堵の溜め息を吐き出した。
彼の強張っていた姿勢が緩む。
「そう! そうなんだよ。経費なんだ、恵子。ブリーダーってやつはがめついからね、知ってるだろう?」
私は十歳になる娘を見下ろした。
その顔は、完璧な無邪気さそのものだった。
ゾッとするような、体が麻痺するほどの恐怖が背筋を這い上がってきた。なんて淀みないのだろう。彼のために嘘をつくことに、どれほど恐ろしく慣れきっているのだろうか。この子は今まで、何度こんなことをしてきた? 私の身内であるはずの子供が、父親の娼婦を庇うために、一体いつから――。
私に向かって微笑みかける二人を見る。この家で馬鹿を見ているのは、私だけだったのだ。
「……すごいわ。二人とも、本当に何から何まで考えているのね」私は静かに呟いた。
家に着いた。
その夜、主寝室の照明は薄暗く落とされていた。
健太が私の隣のベッドに潜り込んでくる。
彼の手がシーツの下を這い、私の太ももを撫で上げた。
「本当に会いたかったよ」私の首筋に唇を這わせながら、彼は囁く。
彼は愛妻家を演じたいようだった。だが、私の脳裏に浮かぶのは、まさにこのシーツの上で腰を振る理奈の姿だけだ。
感じるのはただただ、純粋で混じり気のない嫌悪感だけ。
私は彼の胸を激しく突き飛ばした。
「触らないで」私は鋭く言い放つ。
彼は瞬きをし、ショックを受けたように身を引いた。
「恵子? どうしたんだ?」
「時差ボケよ」私は背を向け、冷たく嘘をついた。
「頭が割れるように痛いの。寝て」
彼はわざとらしく落胆したような溜め息をつき、寝返りを打った。数分後には、もういびきをかき始めていた。
私は一睡もできなかった。
午前二時、私は汚染されたベッドから抜け出した。
暗い廊下を歩き、昔使っていた私のアトリエへ向かう。
薄暗い天井の明かりをつける。
私は静寂の中に立ち、部屋の隅にある埃をかぶったイーゼルを見つめた。歩み寄り、埃よけの布を勢いよく引き剥がす。真っ白なキャンバスが、私を見つめ返していた。
この有毒で腐りきった家族を築くために、私が捨て去った輝かしい人生。
二度とごめんだ。その冷え切った部屋の中で、私は決して揺らぐことのない決意を静かに固めた。
私のものはすべて取り戻す。私のキャリア。私のお金。私の尊厳。そして、あいつと離婚してやる。
翌朝、私はキッチンに立っていた。
マグカップにブラックコーヒーを注ぐ。
健太が入ってきた。
「おはよう」彼は温かい笑顔を向ける。
私はコーヒーの入ったマグカップをカウンターに置いた。
深呼吸をする。私は口を開き、ゆっくりと言った。
「健太、離……」
