第1章
森田理恵視点
「今夜は優しくしてね、裕也」
囁くような祈りにも似た言葉が、綿の布団に横たわる私の唇から零れ落ちる。薄暗い寝室の明かりの中、彼の黒い瞳が私を見つめると、頬がほんのりと赤く染まった。
ああ、この人は今でも本当に綺麗だ。何年も経ったというのに、その姿を見るだけで心臓が跳ね上がる。逞しい両手が私の顔を包み込み、親指が頬骨の下の窪みをなぞると、彼は身を屈めてキスをしてきた。
そのキスは優しくて、敬虔で、まるで私が壊れやすい大切なものであるかのように。彼の手は私の腰へと滑り落ち、指先が薄い木綿の寝巻きの上をなぞっていく。
盗んだ完璧な一瞬だけ、昔に戻ったような気がした。お互いしかいなかった、あの二人の孤児だった頃に。黒木咲良なんて女が存在しないみたいに。
その時、ベッドサイドの小さなテーブルの上のスマホがけたたましく鳴り響いた。
「ごめん」裕也が身を引くと、彼の心の壁がバタンと閉じる瞬間が見えた。さっきまで私を全世界であるかのようにキスしてくれた優しい男は消え失せる。今の彼は、いつもどこか別の場所にいなければならない社長の顔をしている。
彼は三回、長く鳴り響くのを睨みつけてから、ため息をつきながらそれをつかんだ。
「もしもし?」彼の声が、あの特別な声色に変わる。私自身の胸の痛みと同じくらい聞き慣れた声。柔らかく、慎重な声。
まるで、何か繊細なものに話しかけているかのような口調。
かつて、そのように大切に話しかけられていたのは、私だったのに。
裕也は窓辺に歩いていく。白いTシャツの下で、広い肩が強張っている。彼は声を低く抑えているけれど、それでも断片的に聞こえてくる。「いや、いや、大丈夫だ。すぐ行く」
すぐ行く、か。まるで、出ていく口実を待っていたみたいに。
電話が切れる。裕也は窓際に凍りついたように立ち尽くし、P市のきらめく夜景を睨んでいる。まるで、声に出すには臆病すぎる問いの答えがそこにあるかのように。
やがて彼は動き出し、手慣れた効率の良さで服をまとめ始めた。
「今夜も、また行くの?」思ったよりもか細い声が出た。「あの人のところへ?」
私たちの間に、深い亀裂のような沈黙が横たわる。やがて、彼は振り返らないまま頷いた。「ああ」
「今度はどのくらい? 数日? それとも一週間?」
また沈黙。裕也はズボンを履く。その動きは鋭く、罪悪感に満ちている。ようやく口を開いた時、彼の声は掠れていた。「体に気をつけろ。数日は戻れないかもしれない」
彼は戸口で立ち止まり、ドアノブに手をかける。その肩は硬直していて、一瞬、馬鹿げた考えがよぎる。彼が振り返ってくれるかもしれない、と。
でも、彼は振り返らなかった。
ドアが静かなクリック音を立てて閉まり、私はまた一人になった。布団が腰まで滑り落ち、起き上がった私の痩せすぎてしまった肩と、非難するように突き出た鎖骨が露わになる。
私は自分の体を抱きしめ、裕也が夜通し私を抱きしめてくれなくなってからどれくらい経つのか、考えないようにした。
どうしてこうなったんだろう。私たちは、離れられない存在だったのに。
目を閉じると、記憶が私を過去へと引き戻していく。すべてがまだ意味をなしていた頃へ。太陽の家へ。あの厳しい冬、裕也が私のベッドに潜り込んできた頃へ。
私はいつも病気がちだった。熱、感染症、原因不明の病気が、私を衰弱させ、虚ろな目つきにした。裕也は夕食の自分の分を私にくれ、他の子たちに私には手を出すなと言ってくれ、歩けない私を看護師のところまで運んでくれた。
「大丈夫だよ、理恵」熱に浮かされて震える私の髪に、彼はそう囁いた。「俺が君を守るから」
そして彼は、今までずっとそうしてくれた。今この時までは。
S大学医学部の実習で、周りの優秀な学生たちについていくのに必死だった時でさえ、裕也はいつもそばにいてくれた。彼は午前三時に大学の自習室で勉強している私を見つけ出してくれる。資料の山に埋もれてうなだれている私を見つけては、ただ隣に座って励ましてくれた。
それを直そうとするんじゃない。裕也はいつも、私たちの中では私のほうが才能があると言っていた。でも、ただそこにいてくれた。私がちゃんと食べるように。ちゃんと眠るように、見守ってくれた。
「誰にも何も証明する必要なんてない」深夜、彼はいつもそう言ってくれた。「君はもう、俺に必要なすべてなんだ」
卒業後、私たちは二人三脚で夢を形にしていった。彼の経営センスと私の技術力が見事に噛み合い、V市発のAIベンチャーは瞬く間に業界の注目を集めるようになった。苦楽を共にした日々が、今では懐かしい創業期の思い出だ。
株式を公開した時、裕也の純資産はニュースの見出しを飾った。私たちはこの家、私が疲労から回復するための完璧な聖域を手に入れた。
裕也は私の手を握り、ベッドまで運んでくれ、幸せな日々を分かち合った。
あれは私の人生で最も幸せな日々だったし、私たちの結婚もすぐそこまで来ているように思えた。
彼女が戻ってくるまでは。
ちょうど一年前のあの夜を覚えている。裕也が幽霊でも見たかのような顔で帰ってきた夜。顔は灰色で、ウイスキーを指三本分注ぐ手は震えていた。
「咲良が戻ってきた」彼は前置きもなく言った。「話がしたいそうだ」
黒木咲良。S大学医学部附属病院の事務部門マネージャーで、IT企業の社長令嬢。大学時代、しつこいほど熱心に裕也にアプローチしていた女性。
あの頃、彼は彼女に目もくれなかった。当然だ。彼には私がいたのだから。
でも、ここはもう大学じゃない。ここはV市。家柄と代々続く財力が今もなお大きな影響力を持つ場所。黒木家は数十億円規模の半導体特許を保有していた。彼らは一言で私たちのキャリアを潰せるほどの力を持っていた。
「彼女の父親が敵対的買収をちらつかせている」裕也は虚ろな声で説明した。「俺が彼女と結婚しない限りは」
笑ってしまったのを覚えている。本当に笑ってしまった。まるで出来の悪い恋愛小説の一節みたいだったから。金持ちのお嬢様がパパのお金で欲しいものを手に入れる? 冗談でしょ。
「じゃあ、地獄にでも落ちろって言ってやればいいじゃない」私は言った。
裕也は、私が銀行強盗でも提案したかのような顔で私を見た。「理恵、君は分かってない。彼らには、俺たちが築き上げてきたすべてを破壊するコネがあるんだ。でも、もし俺が咲良と結婚すれば、彼らのリソースやネットワークにアクセスできる……長期戦に持ち込める。俺たちの権力基盤を築けるんだ」
彼は言葉を切り、私の大好きなあの優しい声色になった。「そして、時が来たら、君の元へ必ず戻ってくる」
彼の計画は、その時はとても理にかなっているように聞こえた。とても戦略的に。私たちの長期的な幸せのための、一時的な犠牲だと。
でも、それは一年前の話。そして今は……。
今、裕也は私たちのベッドよりも咲良の高級マンションの最上階住戸で過ごす夜のほうが多い。今、彼は彼女の香水の匂いをまとって帰ってくる。高価でむせ返るような、所有権を主張するように彼の肌にまとわりつく匂い。
私はベッドの彼の側に丸くなり、彼の枕を胸に抱きしめる。彼のコロンの香りが私の涙と混じり合い、自分がどれほど哀れで、必死になっているのかを嫌悪する。
私は彼を失いつつあるの? 私を本当に愛してくれた、たった一人の人を?
その考えが、胸に新たなパニックの波を送り込む。裕也は私が八歳の時からずっと、私の錨だった。彼がいなければ、私は何者なんだろう?
この悪夢が始まった頃、すべてを終わらせようと考えたこともあった。裕也がもう私を愛していないなら、生きている意味なんてあるのだろうか? でも、その時……。
私はゆっくりとベッドで起き上がり、手は自然とまだ平らなお腹の上に置かれた。
「でも、あなたが来てくれたのよね?」私は空っぽの部屋に、私たちの赤ちゃんに囁きかける。
この秘密を何日も抱え、ただ今夜を待っていた。
寝室のドアは頑なに閉ざされたままだ。外では、街がV市の成功物語できらめいているけれど、この美しい家の中では、私はただ秘密と、ゆっくりと壊れていく心を抱えた一人の女にすぎない。
「私たちに、赤ちゃんができたのよ、裕也」私は暗闇に向かって囁く。彼の名前を呼ぶ声が震えた。「あなたが、それを聞くためにここにいてくれたら、よかったのに」
私は膝を胸に引き寄せ、片手はまだ私たちの子を守るように置いたまま、窓から差し込む月光が頬に銀色の筋を描くのを、ただ見つめていた。






