第3章

森田理恵視点

彼女に答えはしない。視線すら向けない。

私の視線は咲良を素通りして、裕也に突き刺さる。完璧なスーツに身を包んだ彼は、まるで経済誌の表紙から抜け出してきたみたいだ。でも、その瞳の奥にあるものは見える。罪悪感? 苦痛? それとも、自分の二つの世界が衝突したことへの苛立ち?

咲良の声がまだロビーに響いているけれど、私は彼女が存在しないかのように振る舞う。

私たちの間に、沈黙が広がる。重く、息が詰まるような沈黙が。

裕也は息をつき、忠実な番犬のように近くに控えていた平野誠司の方を向いた。

「誠司、咲良さんを診察室に案内してくれないか?」その声は落ち着いていて、抑制が効いている。「すぐに追いつく」

「かしこまりました」誠司は滑るように一歩前に出る。「黒木さん、参りましょうか?」

「裕也、一緒に来てくれないの?」彼女の声には今、何かが混じっている。不確かさ。自分が思っていたほど主導権を握れていないと、ようやく気づいたような。

「すぐに行く。先に行っててくれ」

裕也が身振りで示すと、誠司はすぐに彼女を連れて行こうと動き出す。

「お嬢様、中川さんがお待ちです。あまりお待たせするわけにはまいりません」

咲良は誠司に導かれて廊下を進んでいくが、何度も振り返っては私を睨みつけてくる。彼女の完璧な仮面が剥がれかけているのを、私たち二人はわかっていた。

そして、二人きりになった。

裕也はゆっくりとこちらに歩いてくる。まるで私が、すぐにでも逃げ出しそうな傷ついた小動物か何かのように。

「理恵……」彼は私の隣に腰を下ろす。声が柔らかくなる。「どうしてここに? また気分でも悪くなったのか?」

彼が手を伸ばしてくるが、その手は途中で止まる。私たちの間の宙ぶらりんのまま。

私はバッグを強く握りしめる。中の医療報告書が、革を焼き尽くしてしまいそうなほど熱く感じられた。

「何でもない」私は声を普通に装う。「ちょっと眠れなくて。睡眠薬をもらいに来ただけ」

でも、裕也は私を十数年も知っている。私のどんな表情も、どんな些細な動きも見逃さない。

「嘘をつくな、理恵」彼の眉間に心配そうな皺が寄る。「ひどい顔色だぞ。それに、震えてる」

私が止める間もなく、彼は私のバッグに手を伸ばした。

「先生が何て言ったか見せてみろ」

「やめて!」私はバッグを引ったくる。「不眠症だって言ったでしょ!」

「理恵、本気だ。その書類を渡せ」

彼の声色が変わる。反論を許さない、あの社長としての口調だ。彼が私のバッグを掴もうとした、その時――

「小嶋さん?」

誠司が不安な顔をして急いで戻ってきた。

「黒木さんがご気分がすぐれないと。中川さんが書類にサインを求めています」

裕也が固まる。私と誠司の間で視線が揺れるのがわかった。

彼の瞳の中で葛藤が渦巻いているのが見える。彼が下さなければならない選択が。

やがて彼はため息をつき、私のバッグから手を離した。

「家に帰ってろ、理恵。話は後だ」

私は裕也が去っていく背中を座ったまま見つめていた。彼の肩はまっすぐで、歩き方も自信に満ちている。まるで何もなかったかのように。

『彼は彼女を選んだ。また。……赤ちゃん、私たちが何をすべきか、もうわかっているよね』

私はそっとお腹に触れ、中に育っている小さな命に思いを馳せる。

ゆっくりと立ち上がって外に出る。太陽の光が強く射し、私は目を細めながら携帯を取り出した。

連絡先をスクロールし、一つの名前で指を止める。佐藤明美。

電話は二回鳴った。

「もしもし? 理恵? 突然どうしたの?」

聞き慣れた、少し訛りのあるエネルギッシュな声。

「会いたかった? 実は今、Ⅴ市行きの飛行機の中なの! 全然会ってなかったじゃない。会いましょうよ!」

彼女の声を聞いて、今日初めて笑みがこぼれた。

「ちょうどよかった。明美に話したいことがあるの」

「深刻そうね。心配しないで、何があっても私がついてるから!」

「ザ・グラス」はⅤ市の繁華街にある、IT業界の人たちが肩の力を抜いて普通の人として過ごすために集まる、おしゃれな居酒屋の一つだ。間接照明が落ち着いた雰囲気を醸し出し、BGMには洗練されたジャズが流れている。店内の調度品はどれも高級感があるのに、さりげない上品さを大切にしたデザインになっている。

私が席に着いた途端、一人の女性が入ってくるのが見えた。黒いドレスに、満面の笑み。

佐藤明美。S大学医学部の実習時代の、私の親友だ。

「理恵!」彼女は両腕を大きく広げる。「もう、すっかり痩せちゃって!」

彼女は私を強く抱きしめ、私は彼女のジャスミンの香水を吸い込んだ。

「ちょっと顔見せて」彼女は私の向かいに座り、私の顔をまじまじと見つめる。「寝てないでしょ?」

佐藤明美。S大学の同級生で、専攻はコンピュータサイエンス。彼女は医療機器メーカーの家系で、卒業後は実家に戻って家業の一部を継いでいる。

裕也の次に、彼女は誰よりも私のことをよく知っている。

「で、あなたの裕也はどうなの? いつ結婚するのよ? 絶対招待してよね!」

彼女は興奮で目を輝かせながら、店員さんに合図を送る。

私は首を横に振った。

「結婚式はないわ。私たちは結婚しない」

彼女の笑顔が瞬時に消える。メニューを置き、私をじっと見つめた。

「は? 何があったの?」

私は深呼吸をして、すべてを話した。

「黒木咲良って覚えてる? 大学時代、ずっと裕也に付きまとってたあの子」

「ああ、あのIT企業の社長令嬢ね。覚えてるよ。裕也の額に『咲良の所有物』って焼き印でも押したいみたいだったじゃない。彼女がどうかしたの?」

「彼女が戻ってきたの。父親を盾にした脅しと一緒に」

私は黒木家からの最後通牒、裕也の言う「戦略的計画」、この一年間の地獄、そして妊娠のことを話した。でも、腎臓病のことはまだ言わなかった。

私が話している間、彼女は黙っていた。店員さんが戻ってくると、彼女は注文した。「赤ワイン一本と、オレンジジュース一杯お願いします」

彼女はジュースを私の前に押しやり、自分のワイングラスになみなみと注ぐ。

「裕也は赤ちゃんのこと、知ってるの?」

「ううん。昨日の夜、伝えようとしたんだけど、また彼女のところに行っちゃって」

それから、今朝の病院でのことを話した。

私が話すにつれて、彼女の表情はどんどん険しくなっていく。

私が話し終える頃には、彼女はボトルを半分空けていた。テーブルを叩きつける音に、他の客がこちらを振り返る。

「あのクソ野郎!」彼女の声が居酒屋中に響き渡る。「よくも理恵にそんな真似ができるわけ!?」

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