第3章

 いつの間にか、優香がついてきていた。

 彼女はドアのそばに隠れるように立ち、両手で航平のスーツの裾をきつく握りしめている。

「航平、そんなに律子さんを怒らないで」

 彼女は目を赤くして言った。

「きっと、あまりにも悲しくて、私のインターンの枠を潰そうとしただけなの。私、律子さんを恨んでないよ」

 泣きじゃくりながらも、その視線の端で私をちらりと窺っている。

 私は何も言わなかった。

 ただ静かに、床に落ちている不採用通知を跨ぎ、彼女に向かって一歩ずつ近づいていく。

 航平は私が折れたと思ったのか、鼻で笑い、少し体をずらした。

「やっと怖くなったか? 優香に謝——」

 パァン!

 鼓膜を劈くような、ひどく乾いた平手打ちの音が響き渡った。

 全身の力を振り絞ったせいで、手のひらがジンジンと痺れている。

 優香の顔は、その衝撃で勢いよく横に弾かれた。

 色白の頬に、瞬く間に五本の真っ赤な指の跡が浮かび上がる。

 彼女は完全に呆然とし、顔を覆いながら信じられないというように目を丸くした。

「きゃああっ!」

 彼女は悲鳴を上げ、そのまま倒れ込むようにして航平の胸に飛び込んだ。

 航平はまるで化け物でも見るかのような目で私を愕然と見つめた。

「律子! お前、どうかしてるぞ!」

 我に返った彼は、優香を背後に庇うと、私の手首を乱暴に掴み上げた。

「よくも彼女を!」

 その目は血走っている。

 私は冷ややかな視線を返し、力を込めて自分の手を少しずつ引き抜いた。

「殴って何が悪いわけ?」

 痛む手首を振りながら言う。

「航平、あなたの脳みそはヘリコプターのプロペラで粉々にでもなったの? NASAがあなたの家の慈善事業だとでも本気で思っているわけ?」

 私は床の不採用通知を指差した。

「その手紙の二ページ目を見てみなさい。不採用の本当の理由が何なのか、自分の目で確かめればいいわ」

 航平は一瞬言葉を失った。

 無意識に視線を落とす。

 しかし優香はビクッと体を強張らせ、慌てて航平の腕を引いた。

「航平、見ないで。もう行きましょう、私、インターンなんてどうでもいい」

 彼女が止めれば止めるほど、航平の眉間には深い皺が刻まれる。

 彼は優香の手を振り払い、身を屈めてその書類を拾い上げると、二ページ目をめくった。

 次の瞬間、彼の表情が凍りついた。

 私は彼に代わって、そこに書かれた文字を読み上げた。

「『申請者である北原優香が提出したアイビーリーグの学歴に重大な詐称の疑いがあり、かつ基礎航空宇宙物理学テストの評価がCであるため。よって、NASAコアラボラトリーへのインターン資格を取り消す』」

 航平の顔に浮かぶ実に滑稽な表情を、私は存分に鑑賞した。

「理解できた、航平?」

 私は容赦なく優香の化けの皮を剥がした。

「私がコネを使って彼女を潰したわけじゃない。あなたの義理の妹が、基礎物理さえ理解できない無知な詐欺師だったってだけよ! 金で買ったような偽の学歴で、国家の最高機密機関に入れるとでも思ったの?」

 航平の顔色は青ざめていた。彼は勢いよく優香を振り返る。

 優香は恐怖で全身を震わせた。

「違うの、航平! エージェントに騙されたの! 偽の学歴だなんて知らなかった!」

「ただ、あなたに誇りに思ってほしかっただけ。どうしてもあなたに追いつきたかったの!」

 彼女は泣き崩れて膝をつき、航平の足にすがりついた。

 航平は唇を震わせ、大きく深呼吸をしてから再び私を見た。

「分かった、学歴の件は彼女の魔が差しただけだ。だが、お前が暴力を振るっていい理由にはならない! 律子、お前は変わってしまった。まるで下品なヒステリー女だ!」

 ヒステリー女?

 思わず吹き出しそうになった。

 私は背を向け、まだ閉じていないスーツケースのポケットから、分厚い茶封筒を抜き出した。

「私が彼女に復讐するために、手段を選ばないって言ったわよね?」

「だったら、その目を大きく見開いてよく見なさい。これが私の復讐よ」

 航平は反射的に封筒を受け取り、中の書類を引き出した。

 タイトルを一瞥しただけで、その長身が大きくよろめいた。

 それは、裁判所の正式な起訴状だった。

 被告、北原優香。

 事由、公共の救命ルートへの不法介入および占拠により、他者の救命措置を遅延させ死亡させた件。

「律子……」

 航平の声はひどく震えていた。彼は勢いよく顔を上げ、信じられないというように私を見る。

「彼女を訴えるつもりか? 刑務所に送る気か!? 彼女の兄は俺の命の恩人なんだぞ! 知っているだろうが! これじゃ彼女を死に追いやるようなものだ!」

 激怒と恐怖の入り混じったその顔を見つめながら、私の心の中にはただ静寂だけが広がっていた。

「それは彼女が母に返すべき借りのようなものよ」

 私は冷酷に言い放った。

「人を殺したなら命で償う。当然の理屈でしょう」

 航平は起訴状を真っ二つに引き裂いた。

「絶対に許さん! 律子、今すぐ告訴を取り下げろ!」

「もしこれ以上事を荒立てるなら、東京で一番の弁護士チームを優香につけてやる! 全財産を失い、社会的に抹殺されるまで追い詰めてやるからな!」

「好きにすればいいわ」

 私はドアのそばに歩み寄り、扉を開け放った。

「さあ、その詐欺師の妹を連れて、私の部屋から出て行って。法廷で会いましょう」

 航平は私を睨みつけ、激しく胸を上下させている。

 彼もようやく気づいたのだろう。かつて彼にどこまでも従順だった律子は、もう死んだのだと。

「後悔するぞ、律子」

 彼は歯を食いしばってそう吐き捨てると、床に座り込んでいた優香を乱暴に引っ張り起こし、一度も振り返ることなくドアを叩きつけて出て行った。

 翌日。私はリビングに座り、葬儀社の担当者と明日の葬儀の最終確認を行っていた。

 突然、私のスマートフォンが狂ったように振動し始めた。

 無数のプッシュ通知が、瞬く間に画面を埋め尽くす。

 TwitterにInstagram、大手ゴシップメディアの見出しは、すべて私の名前で独占されていた。

『驚愕! 平村家のセレブ妻が権力を笠に着て、救助ヘリを強奪!』

『白石律子の真の姿を暴く。冷酷無比な名門の悪女』

『関係者からのリーク。律子の母親は悪質な債務者、生前に巨額のギャンブル借金!』

 その中で最も注目を集めている動画をタップした。

 動画の中では、クリニックの看護師を名乗る人物がカメラに向かって涙ながらに訴えていた。

「あの日は、北原さんが急病で呼吸停止になり、一刻も早い救命が必要だったんです。それなのに、平村夫人は仮病を使っている自分の母親を先に迎えに行くようヘリコプターに強要して……北原さんは危うく死ぬところでした……」

 コメント欄には、圧倒的な数の罵詈雑言と呪詛が溢れ返っている。

『この律子って女、いくらなんでも悪辣すぎるだろ!』

『母親が死んだのは自業自得! これぞ天罰!』

 白黒を完全に反転させたような記事の数々を眺めながら、スマートフォンを握る手の関節が白く浮き出た。

 考えるまでもない。優香の仕業だ。

 しかし私の心は、もう痛みすら感じないほどに麻痺していた。

 構わない。あと二十四時間もすれば、私はこの街を完全に離れるのだから。

 世間の世論など、今の私には何の意味も持たない。

 今はただ、静かに母の最期を見送りたいだけだ。

「白石様?」

 葬儀社の担当者が心配そうに私を見つめた。

「ご気分が優れませんか? 葬儀の供花はすでに飾り終え、骨壺も祭壇の中央に安置してございます」

「ありがとうございます」

 私は疲労に耐えかねて眉間を揉んだ。

 ちょうどその時、担当者がテーブルに置いていたトランシーバーから、突如として耳を劈くようなノイズが爆発した。

 続いて聞こえてきたのは、葬儀社の警備員による、恐怖のあまり裏返った悲鳴だった。

「支配人! 大変です!」

 担当者は慌ててトランシーバーを掴み取った。

「どうした!? 落ち着きなさい!」

「覆面をした暴徒の集団が、白石様のお母様の骨壺を叩き割ったんです!」

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