第1章
凌と初めて出会ったのは、私が十八歳のときだった。
親友の彩乃の家に遊びに行ったら、彼女に腕を引っ張られるようにして、「冷酷で有名」な兄を紹介されることになったのだ。
けれど、凌を目にしたその瞬間、胸がどくんと跳ねた。
その日から私は、底なしの片想いに沈んでいった。
ようやく告白したのは、クリスマスの日だった。
彼のマンションのドアの前に立ち、私は言った。
「凌さん、好き。初めて見たときから、ずっと好きだった」
その夜、私は初めて彼のベッドに潜り込んだ。
自分がどれほど安く見えるかなんて、わかっていた。でもあの頃は、たとえ秘密の相手でも、彼のそばにいられるならそれでいい――そう思っていた。
三年間ずっと、昼は彼の秘書で、夜は秘密の恋人だった。
いつかきっと、私の価値をわかってくれる。そう信じていた。
美月が戻ってくるまでは。
三年前、治療のために海外へ行った凌の幼なじみ。凌が長年想い続けてきた彼女は、完治して帰国したのだ。
凌は彼女のためだけに、盛大な歓迎の宴を開いた。
私は人の輪の端に立ち、凌が美月の手を引いて会場へ入ってくるのを見つめた。
「幼なじみ同士、ようやく再会だね。凌もそろそろ身を固めるんじゃない?」
「海外に行く前、婚約寸前だったって聞いたよ。もうすぐ鐘が鳴るんじゃない?」
周囲のひそひそ声が、針みたいに耳に刺さった。
やがて場は二人をはやし立てる声で満ちていく。酒の勢いも手伝ったのか、美月は凌に身を寄せ、つま先立ちになって彼の唇にキスをした。
会場がどっと歓声に沸いた。
私はその場に凍りついたまま動けなかった。ワイングラスを握る指に力が入りすぎて、爪が掌に食い込む。
人の波が少し引いたところで、私は凌の前に歩み寄った。屈辱を噛み殺しながら、私たちはいったい何なのか、と問いかけた。
彼の声は大きくなかったのに、周りの誰の耳にもはっきり届いた。
「みな、お前のほうから告白したんだろ。俺のベッドに潜り込んで、相手になりたいって勝手に名乗り出た」
凌は私を見た。瞳にはひとかけらの温度もなく、口元には嘲るような笑みが浮かんでいた。
「それで今さら、そんなふうに縋りついて。自分がどれだけ安っぽくて惨めに見えるか、わからないのか?」
無数の視線が私を縫い止める。まるで笑い話のオチみたいに扱われている気がした。
美月に向ける優しさが本物なら、私の尊厳を容赦なく引き裂く冷酷さもまた本物だった。
その瞬間、私は気づいてしまった。このみじめな追いかけっこが、心の底からどうでもよくなったのだ。
スマホのロックを外し、連絡先だけ交換してほとんど話したことのない政略結婚の相手とのメッセージ画面を開く。
「結婚の件、了承します。できるだけ早く日程を決めましょう」
私は顔を上げ、凌の目をまっすぐ見た。
「わかった」と私は言った。
「もう、あなたを煩わせない」
踵を返し、そのまま歩き去った。
宴のあと、彩乃から電話がかかってきた。最近ハマっているドラマの話だの、新しく買ったバッグの自慢だの、楽しそうにまくし立てる。
「そうだ、みなはどう? 何年も追いかけてたあの人、進展あった?」
私は車のシートにもたれ、窓の外を流れていくネオンの滲みを眺めた。
「結婚するの」と、私は静かに言った。
電話口が一瞬静まり、やがて彩乃が大きく息を吐いた。
「やっとだよ! あんた、ずっと枯れ木にしがみついてるつもりかと思った。おめでとう、みな。本当に……私、すごく嬉しい」
私は笑って、何も言わなかった。その枯れ木が、あなたのお兄さんだなんて。
翌朝いちばんに、私は人事部へ行って辞表を提出した。
「みなさん、退職されるなら、社長ご本人の決裁が必要です」人事部長は書類を私に押し戻した。
胸がきゅっと締めつけられる。最後の退場でさえ、凌を避けて通れないのか。
その夜、私は書類を抱えて彼の私邸のヴィラへ向かった。
ドアを押し開けた瞬間、身体が固まった。
リビングでは、美月が私のレースのネグリジェを堂々と身につけ、凌の胸に甘えるように寄り添っていた。凌は彼女の髪をやさしく撫でている。
彼が耳元で低く何か囁くと、美月はわざとらしく息を呑んで「もう!」とでも言いたげに、彼の胸を軽く叩いた。
私が後ずさった拍子に、持っていたファイルが手から滑り落ちる。書類がさらさらと床に散った。
音に気づいた凌が、廊下へ出てきた。
私を見た瞬間、表情が氷のように硬くなる。
「何しに来た」
私は屈んで紙を拾い集めた。拳が白くなるほど力が入っていたが、声だけは揺らさない。
「署名が必要な書類があります」
凌は私を一瞥し、すぐにリビングの美月へ視線を戻すと、声を落とした。
「美月は主寝室に入る。数日で荷物をまとめて、客間に移れ。お前は彩乃の友達だろ。彩乃に頼まれて、面倒を見るって約束した」
三年間、私はみじめなほど安っぽい秘密として扱われてきた。結局この家の片隅に居場所をもらえる理由は、親友の顔を立てるための施しでしかない。
私の存在を、傲慢なくらい計算ずくで配置してみせる彼を見ていると、引き延ばすこと自体がひどく馬鹿らしく思えた。
「結構です」私は立ち上がり、凌の目をまっすぐ見た。
「もう手配は済んでいます。ご迷惑はおかけしません」
退職届を差し出す。彼はただの社内書類だと思ったのだろう、目も通さずにさらりと署名した。
最後の荷物をまとめ、最後の引き継ぎを終えれば――
この滑稽な三年間は、ようやく終わる。
そして私は、結婚する。
私はその夜、路肩に停めた車の中で一睡もせず、ぼんやりと朝を迎えた。
翌朝早く、荷造りのためにヴィラへ戻る。
主寝室のドアを押し開けた瞬間、私は足を止めた。部屋が丸ごと改装され、一面のピンクに塗り替えられていたのだ。ピンクのカーテン、ピンクのシーツ、特注のピンクのドレッサーまで。
以前、私はおずおずと凌に提案したことがある。
「この部屋……ピンクのプリンセスみたいにしてもいい?」
凌は冷たい目で一蹴した。
「ピンクは安っぽい。考えるな」
それが今は、美月が戻った途端にすべてが変わっている。
凌が戸口に現れ、苛立ちを滲ませた声で言った。
「昨日、美月がお前の物がまだここにあるのを見て騒いだ」
「さっさとまとめろ」
彼は狭い廊下の突き当たりを指さした。そこにあるのは、窮屈で埃っぽい物置部屋だった。
物置に入った瞬間、私はようやく、さっきの言葉の残酷な現実を理解した。
