第3章

 美月は凌の腕の中にすっぽりと身を寄せた。

「凌、もうあの女があなたのそばにいるのは見たくない。解雇して。会社からも、あなたの人生からも消して」

 凌の視線が私へと移った。その刹那、彼の瞳にためらいの火花が走ったのが見えた。

 美月もそれに気づいたのだろう。彼女は突然、凌を突き放した。

「したくないってこと? いいわ! じゃあ、あの女のところへ行けば! どうせ私はどうでもいいんでしょ!」

 返事も待たず、彼女は踵を返して駆け出した。

「美月!」凌は切羽詰まった声で、すぐに追いかける。

 この茶番を見届けると、私は背を向けて化粧室へ入った。鏡に映る私は、ひどい有様だった。

 ペーパータオルで顔を拭き、服の乱れを整える。

 化粧室を出ると、美月が廊下の突き当たりに立っていた。

 私を待っている。

「いつまで彼にしがみついていられると思う?」彼女は近づいてきた。

「凌はあなたを哀れんでるだけよ。本気であなたのことが好きだなんて、思ってないわよね?」

 私は身をずらし、脇を通り抜けようとする。

「安い寝相手のくせに、自分から飛び込んできた女」美月は嘲るように言い、道を塞いだ。

「私なら、せめて恥を知って、黙って這うように消えるわ」

 言葉の一つ一つが、痛いところを正確に抉ってくる。

「どいて」掠れた声だったが、感情は平坦だった。

 美月は動かない。けれど視線だけが、私の肩越しへ素早く走った。計算された光がその目に宿る。

 次の瞬間、彼女は腕を伸ばして私を強く突き飛ばした。

 同時に、耳を裂くような悲鳴を上げ、自分から後ろへ倒れ込む。

 私は体勢を崩し、身体が階段の鋭い縁へと後ろに投げ出された。とっさに手すりへ手を伸ばし、必死に踏ん張る。

「美月!」

 美月が床に倒れそうなのを見て、凌が突進した。その必死の勢いの中で、私は邪魔者になった。

 彼はためらいもなく手を伸ばし、私を突き飛ばした。

 腰と下腹が、大理石の角に激しく叩きつけられる。

 鋭く、目の前が白くなる痛みが一瞬で腹を引き裂いた。私は丸く縮こまり、必死に息を吸おうとしたが、ひと息も入ってこない。

「凌……」美月がしゃくり上げるように言った。

「あの人が……私を押したの。怖い……」

 凌は丁寧に彼女に怪我がないか確かめた。ようやくこちらに顔を向けた彼の目には、氷のような冷たさと、嫌悪と、怒りしかなかった。

「みな。お前がそこまで陰険だとは思わなかった。美月はもともと身体が弱いのに、こんな卑劣な真似をするのか」

「次に同じことをしたら、荷物をまとめて会社から出ていけ。たとえ彩乃が直々に頼みに来ても、認めない」

 三年の想い。三年の屈辱。三年の献身。

 彼の目には、何ひとつ残らなかった。

 身体を裂く痛みが、急に遠のいた気がした。胸の奥にあった重く息苦しい何かが、ついに、完全に、ぷつりと切れたからだ。

 私は、三年間苦しみながら愛した男を見つめた。

「……わかった」

 凌が固まった。顔に一瞬、驚きが走る。こんなにあっさり頷くとは思っていなかったのだろう。

 彼が飲み込む前に、美月が彼の襟を掴み、痛がるふりの呻きを漏らした。

 凌の注意は即座に彼女へ戻った。私にはもう一瞥もくれない。彼は美月を抱き上げ、足早に出ていった。

 出口まで来たところで、彼は立ち止まり、振り返って私を見た。

 床にうずくまる私。スカートの血痕は目に痛いほどで、顔色は紙のように白い。

 凌は顎を強く噛みしめ、近くにいた運転手へ言った。「彼女を病院へ連れて行け」

 そう言い残し、凌は美月を別の車に乗せて走り去った。

 運転手に支えられて立ち上がる。痛みでほとんど立っていられない。腰と下腹の灼けるような激痛で、一歩ごとに刃の上を歩いているみたいだった。

 車に乗ると、私はシートに身を預け、目を閉じた。

 スマホが震える。

 凌からのメッセージ。

「さっきは頭に血が上った。でも美月は体が弱い。悔しい思いはさせられない」

「怒ってるなら、埋め合わせはする」

 画面の文字を見つめ、それから凌をブロックした。

 目を閉じると、涙が音もなく落ちた。

 救急外来に着くと、医師は私を診た途端に表情を険しくした。

「腹部への強い鈍的外傷で、内出血しています」

 処置が終わると、私は観察のため廊下へ運ばれた。

 救急室のガラス扉越しに、凌が美月のベッド脇を守っているのが見えた。

 美月は擦り傷程度しかないのに、凌は不安そうに彼女の手を握り、スプーンで一口ずつ粥を食べさせている。

 その優しい表情は、この三年間で数えるほどしか見たことがなかった。

 私は黙ってその光景を見つめていたが、心はもう何ひとつ波立たなかった。

 痛みが頂点に達すると、ただ麻痺になる。

 スマホが震える。

 大地からのメッセージ。

「みな、式は二日後に決まった。大丈夫?」

 私は返した。

「うん」

 スマホの電源を切り、看護師に礼を言って、空港までまっすぐタクシーを拾った。

 その頃、病院では――。

 美月を落ち着かせたあと、凌は傷ついたみなの顔を思い出した。スマホを取り出し、彼女の番号に発信する。

「おかけになった電話番号は、ただいま通話中です……」

 凌は一瞬固まり、もう一度かけた。

 同じアナウンス。

 ブロックされている。

 説明のつかない苛立ちが胸の奥から突き上げ、凌は妹の彩乃に電話をかけた。みなが機嫌を損ねると、いつも彩乃のところへ愚痴をこぼしに行くのだ。

 通話がつながった瞬間、彩乃の怒号が耳を刺した。

「凌! あんた人間なの!?」

「みなに何したか、わかってるの!?」

 凌は眉をひそめた。

「みなが文句を言ったのか? 電話を代われ」

「みなを探してる?」彩乃の声には、抑えきれない怒りと胸の痛みが滲んでいた。

「もう遅いわ。みなはもういない」

「いない? どこへ行った」

 彩乃が冷たく鼻で笑う。

「結婚しに行ったのよ」

「二日後に式。あんたも必ず出席しなさい」

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