第4章
彩乃の言葉――「あの子、二日後に結婚するんだって」――が、凌の頭の中で執拗にこだまし、苦痛の伴う終わりのない反復再生を続けていた。
三年間も自分を追いかけてきた女。どれだけ振り払おうとしても、どうしても離れてくれなかった女が……ほかの男と結婚する?
言葉にできない、複雑な感情が胸の奥からせり上がってくる。
苛立ちなのか。
憎らしさなのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
凌は激しく首を振り、その感情を押し殺そうとした。何にせよ、あいつなんて最初から重要でも何でもなかったはずだ。
……なのに、どうして胸がこんなにも締めつけられる?
凌は病室のガラス窓越しに、ベッドに横たわる美月を見つめた。しかし意識は、三年前へと引き戻されていく。
美月が海外へ行くと知れ渡ったあの日、凌は部屋に閉じこもり、酔いつぶれるまで酒をあおった。
チャイムが鳴った。
ふらつきながら扉を開けると、そこに立っていたのはみな――彩乃の「親友中の親友」だった。何度か顔を合わせたことはある。いつも頬を赤らめて視線を逸らしていたから、ただ極端に人見知りなだけだと思っていた。
まさか、好きだと告げに来たとは思いもしなかった。ひと目惚れで、ずっと凌のことが好きだったのだと。
その夜、凌はみなを美月の代わりにした。
翌朝、目を覚まして隣で眠るみなを見た瞬間、凌はこめかみを押さえ、深い後悔に襲われた。
みなも目を覚ました。彼女は凌を見つめ、その瞳には激しくもひたむきな愛情だけが宿っていた。
凌は口を開いた。本当のことを言うつもりだった――お前を美月だと思い込むふりをしただけだ、と。
だが、あの明るく期待に満ちた眼差しを真正面から受けた途端、言葉が喉に引っかかった。
凌はこめかみを揉み、距離を置くように淡々と言い放つ。
「俺のミスだ。勢いだっただけ。お前は妹の親友だし、これで友情を壊すわけにはいかない。昨夜のことは……なかったことにしよう」
みなの目に涙が滲んだ。
「彼女って肩書きなんていらない。何もいらない。ただ……そばにいさせてほしい。それだけでいいの」
そうしてみなは、名前のない関係を、静かに受け入れた。
隠し続けた秘密は、丸三年にも及んだ。
凌は改めて病室の美月へ視線を戻す。三年待ち続けた女だ。ようやく帰ってきたのだから、今こそ自分の意識は美月だけに、強く縛りつけられているべきなのに。
それなのに……どうして、みなのスカートに滲んだ血の記憶や、彩乃の「結婚する」という言葉を思い出すだけで、心臓が物理的に痛むように軋むんだ。
凌は扉を押し開け、病室に入った。
彼の姿を見た美月は、ベッドの上でむくれた。
「凌、このお水、熱すぎる。これじゃ飲めないよ」
凌は黙ってコップに冷たい水を足した。
美月はひと口飲み、また眉をひそめる。
「それに、冷房が寒い……」
凌は何も言わずにリモコンを取り、温度を上げた。
意識はすでに、去年へと引きずり戻されていた。
去年、凌はひどい高熱を出した。
みなは一晩中そばを離れず、濡れタオルで何度も彼の肌を拭き、熱を下げようと休みなく手を動かしていた。
翌朝ようやく熱が引いたとき、目を覚ました凌が見たのは、ベッドの縁にもたれて眠りこけるみなの姿だった。彼女の手は、なおも凌の手をぎゅっと握りしめたまま。
凌が身を起こした瞬間、みなははっと目を覚ました。
「具合どう? 少しは楽? お腹空いてない? お粥、あったかいの作ってくるね」
目の前の、美月の甘えた要求ばかりの顔を見ながら、凌の意識は容赦なく、何ひとつ求めず、黙って全部を背負っていた女のほうへと引き戻される。
凌は唐突に立ち上がり、鼻筋を指でつまんだ。
「……煙草吸ってくる」
「凌! やっと戻ってきたと思ったら、また出ていくの? 凌!」
美月が背中に向かって叫んだ。
凌は振り返りもしない。意志を込めた大股で、病室を出ていった。
翌日、凌は退院すると、そのまま車を飛ばして会社へ向かった。
自分の執務室に足を踏み入れた瞬間、見知らぬ人物が恭しく頭を下げた。
「おはようございます、結城様。本日より秘書を務めさせていただきます」
凌は眉をひそめる。
「秘書を替えた覚えはない。俺にはみなだけいればいい」
助手が恐る恐る答える。
「その……結城様ご自身が、退職届にご署名なさっております。すでに退社しております」
凌の動きが止まった。
別荘でみなが差し出した書類の記憶が、ようやく脳裏に叩きつけられる。
ありふれた社内書類ではない。あれは、退職届だった。
凌は中身も見ずに、そこへ名前を走り書きしてしまったのだ。
胸の奥を塞いでいた息苦しさが、いきなり牙をむいたように締めつけ、肋が折れそうなほど強く圧迫してきた。
仕事を終えると、凌は車で家へ戻った。
扉を開けた先にあったのは、ぞっとするほど空っぽな静けさだけだった。
台所で忙しなく動くみなの姿もない。玄関先でしゃがみ込み、靴を脱ぐ気配もない。ソファで本を抱え、ふと顔を上げて柔らかく微笑む――そんな静かなぬくもりも、どこにもない。
凌はキッチンへ入り、冷蔵庫を乱暴に開け、氷水のボトルを取ろうとした。
棚には、ガラスの弁当箱が小分けにされ、きっちりと整列して詰められていた。どれにも日付と、温め時間が細かく書き添えられている。
凌はその場で固まった。
耳の奥に、彼女の声が蘇る。
「胃が脂っこいのに弱いでしょ。出前は衛生的じゃないし。私が作るから」
凌は冷蔵庫の扉を閉め、機械みたいに主寝室へ向かった。
寝室には、彼女の私物が一切残っていない。
凌は廊下を進み、物置へ向かった。
棚の奥、隅に押し込まれるようにして、端がくるりと反った薄いノートが見えた。
開くと、すぐにみなの字だと分かった。
「凌はマンゴーに重度のアレルギー。絶対に忘れないこと」
「凌が怒ると、何も言わなくなる。水を一杯出して、そっとしておく」
「凌が仕事で手いっぱいのときは、話しかけられるのが嫌いだし、食事も忘れる。食べるように声をかけること」
凌は一枚、また一枚とめくっていく。指先が小さく震え始めた。
最後のページに辿り着く。そこだけ文字が少し乱れ、何度も書いては消したように滲んでいた。
「凌は、やっぱり私のことが好きじゃないみたい」
「でも、凌のことは全部覚えていたい」
「いつか、私をちゃんと見てくれる日が来るのかな」
凌はきつく目を閉じた。鈍く重い痛みが胸の中心から広がっていく。
そのとき、スマホの振動が思考を断ち切った。
見下ろすと、速報の通知だった。
【独占】みなと大地、明日挙式へ。名家同士の『最強カップル』に街が騒然!
凌は光る画面を、長い間――息が詰まるほど長い間、見つめ続けた。
やがて、恐ろしい現実がじわりと腹の底に落ちてきた。みなは、本当にもう自分を要らないのだ。
彼女は完全に、そして取り返しのつかない形で、凌の人生から出ていった。
どれだけ冷たくしても、どれほど深く傷つけても、彼女だけは決して離れない――凌はずっと、そう信じ込んでいた。
だが今、彼女は別の男と結婚しようとしている。
初めて、残酷なほどはっきりと理解した。凌は、ずっと前からみなに恋をしていたのだ。
自分が「無関心」だと思い込んでいたそれは、直視することを拒み続けた、圧倒的な独占欲と愛情にほかなかった。
