第2章
彼女が触れるより先に、私は腕を引き戻していた。
反射。純粋な反射。
(触れること。きっと触れることだ。あいつはそうやってやる――私に触れて、入り込んでくる。)
玲華の手が、宙で止まった。次いで、彼女の目が硝子みたいに曇る。涙がこぼれる直前にだけ現れる、あの独特の曇り方だ。そして玲華は小さく一歩、引いた。
「伊織、私はただ――」
言葉はそこで途切れた。最後まで言う必要なんてなかったのだ。
一番近いカメラが、その一部始終を捉えている。
私は振り返りもせず、アトリエの廊下へ向かって歩き出した。心臓が速すぎる。鍵のかかる扉と三十分が必要だった。考えるのは調香式――式のことだけで、他は何も考えないでいられる三十分。
アトリエは小さく、防音もされている。扉を閉め、背中を押し当てたまま一瞬だけ立ち尽くし、手の震えが止まるのを待った。
止まらない。
それでも作業台へ向かった。数週間前に提出していた材料が、要求された通りに正確に並べられている。まだ何にも触れない。ただ立ったまま、頭の中で配合をなぞった。層ごとに――ベース、ミドル、そして研究室で一人きりで積み上げた、誰にも知られていない静かな選択のすべてを。
(渡せるか。触れさせてない。とにかく、これを乗り切れ。)
三十分。記憶だけで最初から組み直し、その間ずっと震えは止まらなかった。
外へ戻ると、見えるより先に耳に入った。
「ほんとに押しのけたの?」
「見てたけど、玲華さんほとんど動いてないのに、いきなり――」
私の支持者たちが前方に固まっていた。こちらに気づいて口をつぐんだ者が数人。残りはまだひそひそと話し込んでいて、顔色はあまり良くない。頭を寄せ合い、私のほうは見ていない。
玲華はすでにメインライトの下に座っていた。手は膝の上で組まれ、姿勢は力が抜けていて、微動だにしない。ずっと前から結末と折り合いをつけてしまい、あとは私たちが追いつくのを待っている――そんな人間の顔だった。
司会者がステージ中央へ進み出る。
「それでは、発表順の抽選に移ります」
係員がクリスタル・アトリエの抽選壺を運んできた。ガラの伝統の抽選器――透明度の高い水晶で作られ、毎年この瞬間のために使われる。中には象牙色の球が二つ。決勝進出者それぞれに一つずつ。
玲華が先に引いた。
彼女は最寄りのカメラに向けて掌を開く――Ⅰの球。疑いようもなく、はっきりと。
私が前に出て壺に手を入れた。球は冷たく、つるりとしていた。掌を開く前から、何が出るかは分かっていた。
Ⅱ。前回と同じ。寸分違わず。
顔を上げると、玲華がステージの向こうから私を見ていた。視線が重なった瞬間、彼女の口元が動く――小さく、意図的に、私だけに向けて。私はその唇を見つめ、形から言葉を読み取った。
(終わりよ。)
会場はまだ彼女の抽選に拍手を送っていた。誰も気づかない。
象牙の球を握ったまま立ち尽くし、そこで、何かが胸を殴った。
――彼女は私に触れていない。
廊下で、玲華の指先は実際には接触していない。私が先に動いたのだ。手首からせいぜい五センチほどのところまで近づいただけで、私が引いた。肌も、接触も、何もない。
それでも、あんなに確信している。
(触れることじゃない。)仮説が間違っていた。
だが彼女は、私が掌を開くより前に、あの言葉を唇で示していた。つまり、もう知っていた。
じゃあ、何だ?
司会者がマイクを上げる。
「本日の抽選結果が確定しましたので、このまま――」
「待ってください」
私はすでにステージを横切り、司会者のほうへ向かっていた。
「彼女の抽選を確認させてください」
会場が一斉に静まり返る。司会者が私を見て、仕事用の柔らかな笑みが一瞬だけ揺らいだ。
彼は玲華へ向き直る。
「西園寺さん――球を、会場の皆さまにもう一度お見せいただけますか?」
